はじめに
自己と他者をテーマとしている哲学の勉強会『21世紀の学問』で,参加者の一人が香山リカ『就職がこわい』(講談社,2004年)の読後感を報告した.それを聞いた私は,自分でずっと考えてきた『新しい思考』を分かりやすく述べる段取りが判明したような気分になった.
香山リカの本はたくさん出ているが読んだこともなく,従ってこの本が彼女の著作の体系のうちで,どのような位置をしめるものかは分からない.ただ,テーマの設立と,現場の分析と,結論,の三つが非常に簡明であり,これをそのまま借用して,『新しい思考』を述べられそうなので,それを試みることにする.
第1章 『就職がこわい』の概要
1) 就職がこわい要因
香山リカは,自身の精神科医としての診療体験と,大学の就職委員としての活動体験から,増え続けている就職しない若者を就職や仕事から遠ざけているものについて考察し,『就職がこわい』を書いた.
香山はまず,就職しない若者が増えている,という事実について,統計に基づいて確認し,次に大久保幸夫による就職を諦めるまでの四段階を紹介したうえで,自身の問題設定について次のように述べている.
「なぜ,若者は早々に就職の段階から,リタイアしてしまうのか.最後まで活動を続けずに,『ムリだ』『ダメだ』と見切りをつけてしまうのか. / 社会制度の改革を進めるまえにすべきことは,まずリタイアする彼らの胸のうちをもう少しよく探ってみることなのではなかろうか.そして,彼らをリタイアに向かわせている要因があるならば,それを取り除き,若者に直接『リタイアなどする必要はないんだ』と呼びかけることから始めなくてはならないのではないだろうか.」(26頁)
「彼らの胸のうち」にある「リタイアに向かわせている要因」について,香山はそれを「何かとんでもない心理的な重し」(30頁)であり,無気力感に流されながらこんな自分が嫌だという自己嫌悪にも陥って,気楽には社会に出て行けなくなることのうちには「本人の内面的な問題,家族や友人,教員などの人間関係の問題が絡み合い,事態はより複雑になる」(33ページ)とみている.
このような考えをもとに,香山はまず若者がいだいている不安感についての考察を始めている.この不安感は,社会や他者についての不安感にとどまらず,自分が何をしでかすか分からない,という,自己をコントロールすることについての不安があると香山は指摘している.つまり就職が不安だと答える学生の多くは「具体的に就職の何かが不安なのではなくて,むしろ自分の不確実さが不安だ」(44頁)ということなのだ.そして,「不安が,ある特定の状況や対象に特化されて起きるようになると,それは恐怖と呼ばれる」(50頁)と述べ,この恐怖感を感じる説明としての面接試験の現場について記述し,その上で,そのような結論を導いている.
「原因はいくつもあるだろうが,一番問題なのは学生が就職活動の場で起きていることを,自分の人格すべてが試されたり評価されたりしていることだと,拡大解釈していることだと思う.」(59頁)
このように面接試験における人間関係を心理学的に解釈した香山は,以降は心理学のスタンスで,「要因」の分析と,問題解決の方向性について考察している.次に,その概要を示しておこう.
2) 就職問題の背景
香山説の概要といっても,トータルに述べるのではなく,役に立ちそうな分析や,気に入った文章を紹介することにとどめておこう.まず「解離」について.
香山は,学生に,就職活動を始めるようにすすめたところ,「卒業後のことは,卒業してからじゃないと分かりません.就職活動も,必要なら卒業してから始めます」(98頁)と言われてとまどったことを紹介しつつ,これを自己の連続性や統合がさまざまな程度で失なわれている「解離」と見ている.香山の理解が面白いのは,先のこと,と聞かれて分かりません,と口にする人たちについて,「適応としての解離」ということを考えている点だ.
「その人たちにとっては,というよりは現代の社会をいきるうえでは,解離を起こさずに統合された自己のままでいるよりは,何らかのレベルで解離を起こした方が都合がいいのだ.もちろん,ここでの『都合がいい』は『得をする』ではなく,生き抜くためには『都合がいい』という意味だ.解離は,この不確かな時代に不確かな自分のままで生き抜いていくためのサバイバル術なのではないだろうか.」(104-5頁)
これは第3章就職を遠ざける五つの病理,のトップにあげられているが,この後「短絡」,「自己愛」,「万能」,「自分探し」と続く.次の第4章「女であること」の就職未満,では「女らしさ」についての最近の女子学生の常識の変化について考察している.そのうえでこの本の中心となる第5章就職問題の背景,が続く.
香山は,若者の就職が難しくなっている最大の理由は,雇用の悪化であると認めつつも,しかし,それに対して,若者からは抗議の声も聞かれない現状について,次のように述べている.
「いま自分たちが社会のなかで,あるいは歴史の上で,どういう状況にいるのか.若者は,それが『考えられない』と言うのだ.そして『考えられない』ことを短所や欠点だとも思わずに,『考えられないんだから仕方ない』『考えられないんだからいいじゃないか』と,目の前の状況を何の疑問もなく受け入れてしまっている.」(161頁)
また就職活動について,消極的な態度をとることについては次のように心理分析をしている.
「この彼らの消極的な態度の背景にある心理についてはこれまでいろいろと分析してきたが,大きく分ければ,競争相手がひとりでもいるならば『自分なんか選ばれるわけはない』という極度の自信のなさ,自己評価の低さと,そのもう一方にある『不特定多数を対象にした求人など,自分には関係ない』という特権意識――正確には,特権意識を持てるときを待つ意識――のふたつということにまとめられるのではないだろうか.そしてこのふたつがさまざまな割合で混じり合って,大人からはよく説明しがたい矛盾した態度を作り出している.」(169頁)
「彼らが『自分だけに発せられたメッセージ』にしか反応しないことは確かだ.内容には全くかかわらず,掲示板の情報には関心をもてないが,手元の携帯に届いたメールなら何度も読み返し,深読みをするのである.」(172-3頁)
香山はこのような心理を土台にして,家族におけるパラサイト問題も生じてきていると見ている.
「90年代以降,日本の社会が急激に現実主義に傾くなか,一方ではそれは『能力がある人が高い評価を受けて当然じゃない』という成果主義などの一応は前向きにとらえられる価値観を生み出したが,一方で『お金はまあまああるんだから,大学を出た後で実家の世話になったっていいじゃない』という身も蓋もないような本音主義,合理主義の台頭も招いた.」(182頁)
そして,最後は親子関係の心理分析にたどりつく.
「このように一見,過剰に愛されながらその実は親の刹那的な欲望の対象とされ,それを知りながらも, “子益”ややさしさからその親のもとを離れていけない若者たちは,社会のなかで『これが私』という自己評価を確立するチャンスをなかなか得られない.だから,何不自由なく育った人であればあるほど,『でも私である必要はなかった』と逆に”その他大勢”感を強め,それがあるとき,『自分は親に愛されなかった』という攻撃に向かうことがあるわけだ.」(184頁)
このような分析が提示されると,せっかく色々と考察を述べておきながら,ごく平凡な結論にたどりついてしまったと感じるのは私だけだろうか.次に節をあらためて,第6章打つべき手があるとすれば,を紹介しよう.
3)打つべき手
まず香山は仕事はすべてを解決してくれない,ということを若者に分からせようとしている.その際に冒頭でこれまでの分析の結論をまとめているので,それを見ておこう.
「ここまで,就職や就職活動ができずにフリーターや無業になってしまう若者,いったん就職してもすぐに離職してしまう若者が抱えるさまざまな問題を見てきた.そしてその根底には,『どうせ私なんか』と根拠もなしに自己評価を下げ,『私はその他大勢だから』と就職をして社会に参加する人生に背を向けていながら,一方で『私にしかできないことがきっとあるはず』といつ来るともしれない “名指しでの辞令”を持ち続けている矛盾した心境があることを浮き彫りにした.」(190頁)
しかも,若者たちには,自分だけに来た告知にしか興味がなく,また,本当にやりたいことを探していながら,自分では見つけられずにいる.そこで香山の打つ手は仕事にあまり期待を求めるな,というメッセージを発することだ.
「『私にしできないこと』『本当に自分らしいこと』ができているという感覚や,『私はこれでいいんだ』という自己肯定感は,あくまで自分の心の内側の問題であり,仕事,恋愛,趣味といった外的な要素だけでそれが得られるというのが,そもそも間違いではないだろうか,ということだ.」(192頁)
香山は村上龍の『十三歳のハローワーク』をひきあいに出して,この本では自分が本当に好きなことを仕事にしようと呼びかけているが,そこまで就職や仕事に自分らしさを求めなければならないだろうか,と疑問を呈している.
次に問題にされているものは「自立を阻む親のエゴ」だ.
「戦後の民主主義教育の中で『頭ごなしはダメ,まず話し合い理解し合おう』と徹底的に教えられてきた大人は,自分の子供に向き合ったときに,仕事を通して自己肯定感を十分には得られなかった我が身を棚に上げて『とにかくおまえは就職しろ』とはとても言えない.ついそこで『たしかに仕事だけが人生ではないし・・・・』と妙にものわかりがよくなり,就職に踏み出そうとしない子供までも “理解”しようとしてしまうのだ.」(194頁)
そこで香山は,打つ手として,我が子供を突き放し,就職するよう強要することをすすめている.
最後に挙げているのは,「ひとりひとりに届くメッセージ」となるような打つ手だ.それはまず,「『これは私のことなんだ』と当事者感覚を持ってもらうこと」(202-3頁)であり,どうせ自分なんて,という低い自己評価も,特別な自分でありたい,という自己特権化と結びついていることを見抜いて,仕事や結婚などに頼らなくても自己肯定感を持ち,自分のかけがのなさ内的に実感できるようにする手を考えさせるよう仕向けることだという.そこで香山は大人にできることは,次のことだけだと述べている.
「自分について考えることと,就職することは,とりあえず切り離して考えたほうがいい,ということ.次に,就職だけすればいいというわけではなくて,自分について考えることは長い時間をかけてこれからもせざるをえないだろう,ということ.そして,自分について考えると,しばしば悲観的,否定的な方向に進み勝ちだが,あなたはそう捨てたものでもないし,あなたらしさはすでにそとからはできつつあるようにも見えるから,もう少し自分を信頼してみても大丈夫だ,ということ.それをやっかいな作業ではあるが,ひとりひとりに伝えていく.」(206-7頁)
これは結局は,現存する社会システムに若者たちを回収しようという意図を持ったメッセージだ.あくまでも社会システムが主体であり,若者たちは,その主体に自らを回収させられることのうちに自らを確立する方向を見つけ出すべきだ,という主張である.実際,香山の社会システムへの信頼感は,次のメッセージからも見てとれる.
「人は,人との関係のなかでしか生きていけないが,人をあてにしながら本当の意味で生きていくことも,またできないのだと思う. / 他人をあてにしないで生きること. / 子供はいるなら,自分たちをあてにさせないこと. / 『私にしかできないこと』『自分らしく生きること』を実現するはるか以前に,人がまずしなければならないことはこれだ.そしてあてにしない人生を送る手だてさえ見つかれば,不安や恐怖の多くは消えるはずなのだ. / そのためにも,おそれずにまず就職をしてみては,どうだろう.」(208-9頁)
香山がどのような社会観を持っているかはよくわからない.しかし,「人との関係のなかでしか生きていけない」という以上は,この関係とは社会のことだろう.香山の理解によれば,「他人をあてにしない」大人たちは,会社をあてにしているのだろうが,今の若い人は,他人をあてにしているのではなく,会社をあてにしている大人たちに嫌悪感を抱いているのではなかろうか.香山は若者たちの対人恐怖や就職活動への不安を,人と人との関係における不安とだけ捉えていて,これを社会への不安として捉える視点を欠いているように思われる.このことを就職試験の現場を香山の読みとは別の読みを提示することで明らかにしてみよう.
第2章 面接現場のもうひとつの解釈
1) 社会は対面の都度生成される
就職試験の現場である面接を想定しよう.香山にとってはこれは社会の「制度的なできごと」(54頁)とみなされている.それに対し,この場は人と人とが対面している場だから,一つの社会生成の現場と捉えることも可能だ.
このように捉える立場は,社会はもちろん制度として確立されてはいるが,しかしそれにつきるものではなく,それは絶えず日常の人と人との対面関係のなかで生成しなおされているあるものと考える.そして,この後者の局面は,今日の日本のように,社会が変動しつつある時期には特に重みを持つ.
では何故,人と人との対面の場で社会は生成されるのか.人と人が対面するとき,その場は必ず何らかの意味を持っている.面接の場なら意味を問うまでもないし,会社の仕事上での対面の場や,家庭のなかでの対面の場や,友達としての体面の場など全て意味を持つ.ミードが明らかにしたように,これらの対面の場で,人々は,「一般的他者の態度を取得」することで,それぞれが人として承認しあう関係にある.レインが指摘しているように,このような関係にあっては,自分のアイデンティティは,他者からの承認を必要とするのだ.
そこで問題をさらに追究してみよう.人は何故この対面の場で一般的他者の態度を取得しなければならないのか,と.社会心理学者の研究の視点は,そうすることで他者から承認される,ということが理解された時点で,それ以上の考察はなされない.しかし,今ここで問題にすべきは,この「何故」なのだ.
この「何故」という問は,人と人との対面の場を社会の形成の場とみなすと簡単に解ける.人々がお互いに他者の態度を取得し合うという行為を,相互行為としてとりあうことで,人々は無意識のうちに社会を生成しているのである.このことを理解するためには,社会の原理が,人と人との対面の関係に含まれており,従って,人と人との対面の関係のうちに社会を発見することが問われる.節をあらためて,面接の現場にたちかえろう.
2) 面接の主体は若者にある
面接官に対面しているのは香山が例に出している就職恐怖にとりつかれた若者である.面接官はまずいぶかしげに見つめる.次に,香山にとっては,面接官が口にする制度上の問が,若者には警察の尋問のように感じる.面接官は採用について後は電話で問い合わせるように告知するが,若者はこの告知を断わられたと受け取り,電話もしない.
この事態を述べた後,香山は「面接が本当に恐ろしいのではなくて,面接官のふつうの表情や言葉,態度を,面接を受ける側の若者が『これは自分に恐怖を与えようとしているのだ.自分はいぶかしまれ,さげすまれているのだ』と過剰にネガティブに解釈してしまっているということだ」(53頁)と述べているように,若者の心の問題として捉えるにとどまっている.
人と人との対面の関係で社会が成立されるのは,一方の行為を他人が見るときに,見る側が一般的他者の態度を取得することによってであった.このことで,行為は承認を受ける.この見地からすれば,最初の行為の主体は面接官であり,若者はその行為に対して,一般的他者の態度を取得することで承認しなければならない.
ところが,この若者は,一般的他者の態度を取得することはできないのだ.面接官の行為が若者によって承認されないとなると,面接官がいぶかしげに見つめる,という態度に変化するのは当然の帰結である.ここで若者はそれと意識している訳ではないが,既成の社会を生成していくことを否定する主体として登場している.
若者が求める一般的他者とは,生きがいのある仕事についている人のことだ.これは面接官の一般的他者観とは,一致していない.しかも,面接の場の意味は,会社にとって必要な人材を選別するところにあるから,面接官はこのような若者については,おそらく言外のしぐさで,拒否の意を表明しているだろう.
事態がこのようであれば,面接を制度的なできごとと見なし,社会の方を主体にして,それに参加するために,自分自身を改造せよと説くことは全然解決にならないことが明らかとなる.逆に面接の場における主体は若者であり,若者が自分の描く一般的他者のイメージに合う企業を「面接」する場として就職活動を位置づける方が面白いのではなかろうか.
3)社会システム側の対応
既成の社会システムの方は,「就職がこわい」と感じるような若者を排除できたとしても,しかしその事で,社会の生成を不能にしているという現実に直面する.そこで社会システムの中核となっている企業がこの間対応策として出してきたものは雇用形態の多様化であり,差別化である.終身雇用制を解体し,正社員をリストラしてパートと派遣社員で賄っていけるような事業所の体制づくりが進み,企業は「就職がこわい」と考えているようなフリーターを受け容れるシステムを編み出している.
この日本の企業のシステムの変化は,グローバリゼーションによる国際的な労働力の安売り競争に直面して開始されたものだが,他方で,若者の側の文化的変容とセットになっている点も見逃せない.そして若者の側の文化的変容の背後には,世代間抗争がある.これは年金問題に顕著であるが,また,赤字国債による未来世代への費用のおしつけや,資源の一世代占めなど,多方面にわたっている.
「就職がこわい」ということは,既存の社会システムへの参画に対する違和感の表明であり,既存の社会システムに不満や批判を持っていることだが,その要因がグローバリゼーションであるとか,世代間抗争であるとかだとすれば,自らの力では如何ともし難いものと考えざるを得ない.
他方で,企業の側が若者(子育ての終わった女性も含む)の文化的変容に対応して採用した雇用形態の多様化は,社会システムの安定性という見地からすれば,終身雇用制に比べ,非常に弱いものとなっている.従来企業が果たしてきた企業内福利政策の内実が「自己責任」という言葉の下に,既に破産の間際にある国家と,一人では何も出来ない個々の個人におしつけられてきているからだ.社会システム内部で,不安と抗争とが高まらざるを得なくなってしまってきており,ここから抜けだすには,支配政党にとっては政治的にはイデオロギー的結合を目指し,経済的にはインフレ政策を目指す以外にない,と判断されているようだ.
とすれば,若者たちは,「就職がこわい」という価値観に基づく新しい社会を形成していく以外に自己実現の道はないのではなかろうか.
境毅 ニュースタートパートナー