「被障害者の時代」髙橋淳敏
被障害者の時代
誰に求められているわけでもなく、誰に言われているのでもない。ここに文章を書くという行為、月に一度、社会的な引きこもり問題に関する話題を提供しているつもりで書いている。さみしくも、ほとんど応答や反応もない。元からと云えばそうだが、同じ人が同じテーマで15年以上前から3000字弱、200くらいは投稿しているのだから、書いた私も把握できていないわけで。最近よくあるのは、新たな見解だと意気揚々と書き初めたものの、「あれ、これ前に似たようなこと書いたな」ということがある。それで、今回も3年前に書いた「障害者とは誰のことか」という文章と酷似する内容になりそうだったので、これを新たな試みとして、自分の文章を書き換える形で掲載した。書く中で新たな見解も見出せた。内容は似てはいますが、ほぼ全文書き換えることになりました。以下。
病気は治ると言うが、障害は治るとは云わない。病気は治らないこともあるが、良くなるのも悪くなるのも過渡的な状態であるから時々に変化する。だから、自然治癒であろうと病気は治ることがある。障害は、身体の一部欠損などを、個体が変化しないことの意味が含まれている。だから、変化することや治ることは「障害」という言葉の中には意味されない。一方で、病気も障害も「持つ」ということがある。「あの人は病気である」とも云うし、「私は障害を持っている」とも言う。この「持つ」という場合、病気や障害が主語になっても区別されないことがあるが、特に「障害を持っている」と言われることに違和感がある。この違和感を「持っている」人は多いと思う。一つは、単純に障害は「障害者」と言われている人が持っている物なのか?という問いに対する応えが難しいことである。先の身体の欠損などを意味することではあっても、それは「持っている」ことではない。あえて云うなれば、欠損した身体を「持っている」ことになるが、そんな言い方があるだろうか。例えばこれは、国籍の違う親から産まれた子どもを「ハーフ」という言葉に似ている。「ダブル」が正しいとも思わないが、欠損していることの方を強調して、名指されていることになる。「障害者」は、常に欠損した身体を持っているということが、自らを代表していることになる。それを、「障がい者」とか「障碍者」とかとして、害の字を入れ替えても、健常者や障害者の認識は変わらない。「ひきこもり」という言葉もそれに似ていて、差別用語である。誰もが、そんな風に言われ続けることは本意ではないはずだ。
さて、身体の欠損などではなく、「障害」はどこにあるだろうか?これはあちこちでよく例にあがる話しでもあるが、車いすに乗っている人にとっての障害は段差にある。階段や段差があって、その先に進めないのは、段差が障害物となっているからである。最近は「合理的配慮」などと言われ、「バリアフリー」など障害を社会の側が取り除こうとする動きがよく見られる。車いすに乗る人が多くなったこともあるが、個体が変化しない治らない意味が含められた「障害者」であれば、彼らにその障害を取り除くことこそ不可能である。少なくとも、障害は「障害者」と言われる人とそうではないとされる人や社会の間に存在する。例えば、このまま車いすに乗る人の方が多くなり、その人たちに便利がいい家などが開発されて、天井が低かったりするのであれば、その生活や家での「障害者」は普段は健常者と言われる人がなることもある。それでもっと言えば、障害は「障害者」とそうではないとされる人や社会の間にあるが、どちらかというと「障害者」ではない側、社会やそうではないとされる人の方が「持っている」設けている物ではないか。
以前、就職氷河期世代における面接テーブル上の、買い手市場と売り手市場のコミュニケーションの180度転回。コペルニクス的転回から、ポストモダン時代に「コミュニケーション障害」などとされている物の正体を暴いていったが、「障害」と言われる物を個人が「持つ」ことの不可能性については、この障害概念からも分かるだろう。難しい要約になるかもしれないが、「障害者」と呼ばれる事態は、社会的に欠落した存在であることを、そうではないとされる人や社会の側から一方的に強要され続けていることでもある。しかも、「障害者」と言われた人には、その状況を独力では変えることはできない。一方的なデスコミュニケーション状態でもあり、社会が設けている障害を「障害者」に押しつけていることになっている。さてここでもコペルニクス的転回が必要になりそうだ。何の躊躇もなく「障害者」とした近代(モダン)、障がい者や障碍者などとお茶を濁した次世代(ポストモダン)、新近代(ニューモダン)は「被障害者」の時代になるのではないか。今、隆盛し始めているAI(人工知能)などと比べると、多くの面で人という存在自体が、今は障害者と言われている「被障害者」になるのではないか。
考えてきたように障害はどちらかというと、「障害者」ではなく、そうは呼ばれていない人や社会が現在、設けている物である。その点において、あえて言うなれば「障害者」は、障害を被っている人として「被障害者」という方が妥当である。では、お茶を濁されている現代においての「障害者」とは誰なのか。それは、「被障害者」を「障害者」だとしている社会や、その仕組みの中で生活する人である。簡単に言えば、多くの「私たち」こそが、押しつけている障害を持っている「障害者」である。それに私たち「障害者」は、設けた障害を取り除くことが可能である。「ひきこもり」も、ほぼ同じようにその概念を転回することができる。漠然とでも、何かを「ひきこもり」と名指した瞬間、その社会や人が「ひきこもり」になる。そして「ひきこもり」になったと認識した私たちこそが、引きこもらないことが可能になる。まず、そのように考えることができれば、世界の夜明けも近い。
2025年4月19日 髙橋淳敏