NPO法人 ニュースタート事務局関西

「当々云」髙橋淳敏

By , 2025年5月17日 5:00 PM

当々云
 表題の「当々云」と名付けた集まりが「へそでちゃ」で始まった。当々云も、へそでちゃも聞き慣れない単語ばかりで、一体何のことか分からないと思う。「へそでちゃ」は前にも書いた新しく作った場所の名称で、今回はそこでやる「当々云」と云う集まりについて書く。当事者が云う、この当事者とは一体誰のことか。引きこもり問題であれば、引きこもっている人は、その問題の当事者と云われている。では、引きこもり問題における当事者は、引きこもっている人だけなのか。ここでは何度も書いているように、引きこもり問題において、問題は「ひきこもり」にあるのではない。社会や「ひきこもり」と言われる人以外の問題であると考えられる。なので、例えばその家族は、引きこもり問題の当事者である。それならば逆に、引きこもっている人は当事者ではないことになるが、引きこもっている人は自分以外で引きこもっている人の問題の当事者となる。要するには「引きこもり」と云われていることが社会問題である所以である。引きこもっている人は、自分が引きこもっている問題ではなく、自分以外の引きこもっている人の問題の当事者である。何か狐につままれたような、あるいは詭弁のように聞こえるかもしれないが、それは世間が引きこもり問題を当然のようにして、病気や障害、能力や怠慢、気力など個人の「ひきこもり」を問題としていること(思考停止)による。
 この自己責任的な問題とされている「ひきこもりはどのようにすればその状態から抜け出せるか」と云う命題については、みなさんご存じのように30年以上、未解決のままである。例え、一人の人が学校へと通学したり、会社などに就職できたりしたとしても、その数も少なければ、新たに引きこもる人も絶えない。自己責任的な「ひきこもり」という名称は、その問題のとらえ方がおかしい。引きこもり問題を「ひきこもり」個人の問題として、解決できないように転倒して考えている。灯台下暗しと云うのか、この問いの答えは、この問いが立てられた足元にある。問題は、個人にではなく「ひきこもり」と名指した社会にあり、「ひきこもり」はその問題が、自分にないことが分かれば、その状態から解放される。「ひきこもり」を自分の責任にしないこと、それが唯一この問題を解く第一歩であり、そこから踏み出すことによって引きこもっている状態から抜け出さなくてはならなくなる。なぜならば自らに押しつけられているひきこもり問題は、自分だけでは解消することができないからだ。引きこもり問題が自分では解決できないと考えることが、「ひきこもり」から抜け出す機会になる。ただそれは、問題や自らの存在を他人や「ひきこもり」と名指してくる社会を前提にすることであり、対人恐怖や人間不信などに悩まされている場合は、それはとても困難な問いの立てつけにもなる。でもやはり、人との関りの中でしか、その不信や信念が解消されていくことはないだろう。少し脱線したがもとい、少なくとも日本の社会問題であるとすれば、すべての人が引きこもり問題における当事者である。これはきれいごとではなく、そのように考えられなかったことが、未だに引きこもり問題が解決できない根本的な原因である。悪しき「ひきこもり」の定義にも、家族以外の人と半年以上会ったこともないなどの条項がある。家族以外の人と会うことのできる「当々云」は、来ることができたところで「ひきこもり」でもない。引きこもり問題とすれば、それぞれにその問題の当事者として云う集まりになる。「ひきこもり」(と云う言葉)を生んだ社会とは何か。

 もう一つ、引きこもり問題とは直接関係はないが、分かりやすい社会問題の例をあげてみる。沖縄問題とされることが多い米軍基地問題である。日本地区にある米軍基地の70%以上が沖縄県に集中している。それも、沖縄が日本に「復帰」したとされる1972年5月15日以降、沖縄への負担は増えている。沖縄県は県知事選や、県民投票まで行って、新基地建設などにも反対の意を示してきた。その意をずっと聞き入れないのは、国や政府であり、沖縄県以外の日本である。だから、沖縄に遍在する米軍基地問題は、沖縄以外の日本にその原因がある。なので、これら沖縄問題とされる当事者は、沖縄以外の日本に住む人たちとなる。沖縄が何度、米軍基地を減らそうとしたところで、その問題は解決するどころかひどくなってきた。これも問題が転倒していて、沖縄に問題があるのではなく、それ以外の日本に問題があるために未解決のままの社会問題である。沖縄に民主主義がないのではなく、日本に民主主義がなく、単なる多数決になっている問題である。では、これらの社会問題を解決していくにはどうしていけばいいか?それが「当々云」の集まりで、そこで当事者と云うことが大事で、云い切ってしまうことからしか始まらない。私は、沖縄に遍在する米軍基地の問題の当事者である。これは何も自意識過剰なのではなく、問いの立て方や問題認識として成立している。だから、私には沖縄に遍在する米軍基地問題を解決することができる。最後に、前回も書いた障害者の話しも添えておく。特別支援学級や通級など、分離教育がすすんでいる他、障害者問題と云われることがある。ここまでくれば分かると思うが、これも障害者が問題なのではなく、学校教育のしかも障害者ではない健常者と云われる生徒への教育が問題なのである。なぜ、障害者と分離しなければならないことを教育と云えるのか。障害者問題における当事者は、ほとんどの場合は健常者である。段差(障害)がある度に、車いすを持ち上げるようなことを制度化するのではなく、段差をなくせるところはなくし、それでも残る段差があれば近くにいてできる誰かが、当たり前のように持ち上げるなど協力すれば良い話しである。障害者問題における当事者は、自らに押しつけられている障害以外、全ての人がその障害者問題の当事者なのだから。あらゆる社会問題は、自己責任から抜け出せない社会の中で、このような転倒が起きている。それをコペルニクス的転回でもって、正立させて、問いを立て直すことが何よりも大事であることが、引きこもり問題30年の反省である。私は、引きこもり問題や沖縄米軍基地問題や障害者問題の当事者である。そう、当事者と云い、当事者として何が云えるのか。

2025年5月17日 髙橋淳敏

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