NPO法人 ニュースタート事務局関西

「ひきこもり」と引きこもり問題 髙橋淳敏

By , 2025年6月21日 6:00 PM

「ひきこもり」と引きこもり問題 ~社会問題の当事者による地域づくり~

  「ひきこもり」は、閉じこもりとか引き籠りとか、「引きこもる」と云う動詞からの派生で、90年代まで言葉が定着していなかった。ニュースタート事務局関西の活動が始まった1998年同時期に「社会的ひきこもり」と云う新書が出版され、アパシー(無気力症)を研究をしていた精神科医の斎藤環が「ひきこもり」を定義したのが普及した。さらに2001年前後に、NHKが「ひきこもり」キャンペーンを始め、2003年には厚生労働省がひきこもり支援マニュアルを作成し、そこで「ひきこもり」概念は固められた。まずは社会的な引きこもり問題があり、本来は見えない「ひきこもり」に焦点が当てられ、官製版「ひきこもり」が発明される。この時期は、バブル崩壊直後で少子高齢化がはじまり、日本の経済は低迷し始めるが、まだ人口はわずかながらも増えていた。今まで通りにはいかない急落一歩手前の、先の見えない不安定な時代に、物言わない「ひきこもり」は固定化され、成長の生贄にされた。それまでの日本の経済成長期は、消費者や労働者として、暮らしが共に良くなっていく出口のある競争であり協力であった。それが、振り落とされないために手を取り合えば互いが重荷になる出口のない競争社会へと変容していた。皆で目標や権力に向き合うのではなく、限られたパイの権力下で弱い者が弱い者をたたき合ういじめ社会の到来。非正規雇用やフリーターなど、社会構造の変化による多くの問題は、自己責任など個人の問題として押しつけられ置き換わっていった。
  1998年に「大学生の不登校について考える会(現在の例会)」から始まったニュースタート事務局関西の活動は、前代表の西嶋彰が一人一人の若者だけを見ても、引きこもり問題を理解することはできないとし、社会問題としての引きこもり問題について考え活動を始める。「ひきこもり」と名指された自己責任の問題と、引きこもり問題とされる社会問題を分けることなく、個別の支援をしながら引きこもり問題を通じて、今とは違う社会を共につくっていくことが模索された。ニュースタート事務局関西の例会では、我が子だけの問題(病気、障害、無気力、怠惰など)と思っている親や本人が、他の家族も似た状況にあることを知り、盲目的に信じてきた成長や発達、大学進学や企業への就職などの進路や社会を見直す機会になっていた。さらには、引きこもりが社会問題であることを通して、親や本人が社会と出会い直す必要があった。賃金を上げずに内部留保や非正規雇用化する企業による既存の出口にだけ依存していれば、出口のない競争に巻き込まれ、それを自立とする引きこもり問題は個別の「ひきこもり」に責任転嫁されていく一方であった。そうならないためには、まずは引きこもり問題を通じて、鍋の会などで新たな社会的関係をつくっていく必要があった。2001年には訪問活動と共同生活寮を始め、関連する一方では、地域通貨やフリーターズネットワークの活動も始まった。2003年にはNSワーカーズでの仕事づくりが始まり、それらが現在の日本スローワーク協会(カフェコモンズなど)や、今はなきスロースペース(教室事業)やオブスペース(就労支援事業)として、のちにはコモンズハート(まごの手、なんでもや一般社団法人)に繋がっていった。2005年には「ニート」や「発達障害」が、「ひきこもり」に似た言葉として発明され、支援業界は行政からの助成金補助金によって壊滅的な影響を受ける。「ニート」は若者自立塾やその後のサポートステーションとして、発達障害は就労継続、移行型支援事業や障害者年金などとして、無内容な金策で誘導した個別支援事業は、社会問題としての引きこもり問題の取り組みを相対的に困難な状況に追い込んだ。ニュースタート事務局関西は何度も活動の継続が危ぶまれる中、ついには2019年に大きな活動基盤でもあった共同生活寮を閉じることになった。そして、初心に帰り、昨年「へそでちゃ」と名付けた新たな場所を、社会問題の解決の拠点として、社会問題について考える他の集まりや地域住民と共につくる。ニュースタート事務局関西の活動は「ひきこもり」の発生と、問いの立て方に反発しながらも共にあり、27年間、引きこもりの社会問題に取り組んできた。
  「ひきこもり」は個人にその問題を置く。病気・障害・無気力・怠惰など個人を問題として、個人に対して行う治療・福祉・訓練・教育などを支援とする。なので、問題の当事者は「ひきこもり」と名指された個人であり、個人を社会に適応させる形で支援は行われる。問題があるのは個人であって、社会や支援側が直接引きこもり問題を問われることはない。2000年頃に発明され定着した「ひきこもり」は、個人を指す名詞であり、「家族以外の人と6カ月以上会っていない」など、他人の観測によって状態が変容するシュレーディンガーの猫のような定義でもある。箱を開けた瞬間、家族以外の他人と出会った瞬間に「ひきこもり」ではなくなり問題は解消されるはずの、「ひきこもり」を問題とするためだけの便宜的な定義である。その上で本来は社会的に不利益な状態にあることを、「ひきこもり」概念は個人や家族の問題に転嫁する。精神科医を権威とする支援者や、NHKなどの大衆メディア、そして国家行政がこぞって個人の問題として押しつけたのが「ひきこもり」という言葉には含まれている。名指され名付けられて、良いこともなければ、本人たちも呼ばれたいと望んでいるのでもない差別用語である。何よりも誰かが観測した時点で消失してしまうような差別化するためだけにつけられた定義では、現実的に言葉として使い途がない。「ひきこもり」は見えない幽霊のようでいて、ただ不安を駆り立てられ、あらゆる社会問題のスケープゴートにされた。だが、この30年「ひきこもり」という人が100万人も200万人も存在し、その人たちにが問題であり続け、治療や支援や訓練や教育などが漠然として必要とされてきた。支援団体と呼ばれている私たちは自己批判を込めて、それでは引きこもり問題が全く解決されなかったことを反省しなければならない。
  一方で、引きこもる人が多くなる社会問題がある。これは「ひきこもり」が発明される以前からの問題であって、再び最近になって「ひきこもり」に代わって前景化してきている。「ひきこもり」と名指される人が急激に増えた原因を、「ひきこもり」個人のせいとして、社会問題としては引きこもり問題はほとんど追及されてこなかった。核家族化が進み、個の単位へと縮小した社会構造の変化は、個人の責任ではない。「ひきこもり」が増えた原因を、今の学校教育や働き方、暮らし方にあるとするのが、引きこもり問題である。引きこもり問題を通じて、社会を変えていく。変わるべきは治療や、福祉や、訓練や、教育の方であり支援のあり方である。何が直接的に引きこもる理由になっているかは分からなくても、200万人に迫るとも云われ引きこもる人が増え続ける理由に、いまの社会の在り方や構造的な問題が関係していることは誰もが想像できる。金や実体経済の価値が大きく失われ、差別や偏見が横行し誰とも付き合えず、近くへ出ていける場がない社会問題として、引きこもる人は増えている。あるいは、引きこもっている方が幸せであることがもたらす問題でもある。人と付き合わない方が良い人が多くなれば、その考え方の良し悪しではなく、そういった状況は社会的に様々な問題を引き起こすだろう。「ひきこもり」における当事者は、引きこもる本人かその家族ぐらいだろうが、引きこもり問題における当事者は、この問題のある社会を構成する全ての人である。「ひきこもり」と名指される個人においては、自らの「ひきこもり」の当事者ではなく、引きこもりが増えている社会問題の当事者であると云う読み返しをする必要がある。なので、引きこもっている人の支援は、その個人を就学や就労させることは目的にはならない。社会の引きこもり問題を通してみれば、「ひきこもり」からはすぐに解放される。自らの問題として押しつけられた「ひきこもり」は、自らでは解決できない。「ひきこもり」から解放され、引きこもり問題の当事者であるためには、自分ではない誰かの引きこもり問題と関わることになる。そして、ニュースタート事務局関西は、「ひきこもり」の支援者ではなく、引きこもり問題の当事者として活動してきた。「ひきこもり」と名指された個人や、その家族を通じて、引きこもり問題に取り組んできた。
  「引きこもりの7割は自立できる」という新書を一昨年前に出した千葉にあるニュースタート事務局は、今年いっぱいで30年間やってきた活動を終了する。本の内容は、30年前よりも就職状況は良くなったので、「ひきこもり」も就職しやすくなったとの話しであった。昔のように難しいことではなくなったから、「ひきこもり」に拘ることなく家を出て行こうと。しかし、そうであれば「ひきこもり」が増えた今こそ、引き続き「ひきこもり」支援を続けていく好機だと思うが、法人を代表し続けた二神能基は活動をやめる理由は多くは語らず、代わりに斎藤環やKHJ親の会の名をあげ、家の中で解決しようとする家族の会話や、親が子を信じて待つことを批判している。今に始まったことでもないが、「ひきこもり」をどうにかしようとする医者や親の会と、引きこもり問題を解決するやり方には常に隔たりがあった。「ひきこもり」を問題とする家族の中の会話のほとんどは無意味である。親と子それぞれが、引きこもり問題の当事者として、他人や社会との関わっていくような話し合いが必要である。ニュースタート事務局は、そのために親と子を切り離す支援をずっと続けてきたように考える。私たちも同様に、共同生活寮のあった20年弱は親と子を切り離す支援が主な活動であった。親と子が離れれば、それだけで「ひきこもり」ではなくなったのは事実である。だが、それでも「ひきこもり」が増え続けたのは、精神科医や親の会が、親子の関係に固執し続ける引きこもり問題があったからではなかったか。親子の関係に執着させているのは、自己責任と云いながらも大人になった子の人生を親の責任とする社会である。医者や親や支援者が考える「ひきこもり」は存在しない。そして改めて私たちは、引きこもり問題の当事者であることを、ここに宣言する。
2025年6月21日 髙橋淳敏

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