『ひきこもりだった僕から』上山和樹著 講談社
この本は,自分の内面を正確に描き出すことで,ひきこもりの人達の脱出の役に立てようという問題意識から書かれた力作です.普通,書評というと,誉めるのがマナーのようですが,誉められて自己満足するよりも,もっと思考に磨きをかけた方が良いように思います.著者の関心が心理学から哲学へ向かうことを期待しつつ,疑問点を述べてみます.
一読して気になったのは,著者の思考が「公」と「私」や,「なんの苦痛もなくのうのうとふつうに社会に暮らしている人」と「ひきこもり」や,自分の体験に共感してくれる人としてくれない人,というように,いつも二分法を前提にしていることです.
また,自分が気に入らないものに対して,「イデオロギー」や「全共闘」や「左翼活動家」というレッテルを貼り,個々人の多様性を認めようとしないことも気になりました.
現代思想による二分法批判を知っているはずの著者が,何故二分法的思考に陥っているのでしょうか.こんなことを考えながら読んでいましたが,とりあえず,前半部分で著者が悩まされていた観念は,実は誰もが「もう一つの自分」として持っているものなのですね.
一方に現実や世間に順応している自分と観念としてある「もう一つの自分」,そして著者の場合,この後者が肥大し,順応している自分の方を影におしやっている,ということが報告されています.著者もこのことには気付いていて,心理学を究めることで何とか克服しようとしているようですが,私は,この著書を哲学の素材と考えると,非常に意義があると思います.
意識一般は,ヘーゲルが説いたように,自我と対象(自我自身も含む)との関係です.この意識と,著者が報告している著者の自己意識とを対比してみましょう.
著者が現実について論じるとき,それは著者の観念の中にある「もう一つの自分」のことですから,ここでは自我と対象,あるいは主体と客体という現実の枠組みそのものが消失させられています.というのも,自我が主体としてあるのは,順応している自分と「もう一つの自分」との統一としてであり,主体にこの統一があるからこそ,主体と客体という現実の枠組みが意識されてくるのですね.
ところが,著者のように自己意識が「もう一つの自分」だけになると,自分の観念が<現実>として捉えられ,それが現実でないことは経験によって明らかだから,「<現実>が<現実>であること自体が耐えられなかった」(85頁)ということになってしまいます.また逆に,「僕という存在が,素材として<現実>世界に成立している.」(87頁)という発想になります.ここでの僕とは,著者の観念のなかの「もう一つの自分」であり,そしてこれ以外に現実はないとしたら,これを現実世界の素材とみなしていく他はなく,こうして現実は著者の観念だということになってしまいます.こうした考えが変なことは解り切ったことですから,著者の中には「<現実>を<現実>でなくしたい」(85頁)という欲求が生み出されてきます.
つまり,著者の思考は,著者の観念の中でくるくる回っているだけなんですね.ある時はそれは<現実>世界となり,ある時は僕となる.こうなると経験が占める位置が失われ,相手に対して敵か見方か,というように分類する発想しか生まれてこなくなるのではないでしょうか.
著者の思考は,一言で表せば,世界には内省する自分しか居ない,ということになるでしょう.この独我論への哲学的反省はどのようになされるのでしょうか.これは著者自身の哲学的課題だと思います.
境毅 ニュースタートパートナー