8月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
毎年のように、台風や大雨による自然災害が続いている。高槻では2年前に大阪府北部地震があった。その年は、台風も大阪に直撃した。今年は全国的に長雨が続いている。もうあまり梅雨とも呼ばなくなっているのか。雨季とでも表した方がいいのかもしれない。熊本などで河川が氾濫したり、各地で土砂崩れなどの大きな地形変化が生じている。気候変動なのか、自然が猛威をふるうことに毎度馴れはしないが、変化とも言い移ろいでもあり、いろんな表情を見せる自然に翻弄されながらも、それでも渦中にあって生きた心地はどこかにあった。阪神淡路大震災では、揺れている数分の間は生きた心地もしなかったが、揺れが収まってからは、私たちが常日頃向き合っているのは人間であり自然なんだと気づかされるような経験であった。都市部に住んでいたら、普段は隠されていて見えにくい人や自然の力があった。それと比べたら、東日本大震災後の原発事故は今でも生きた心地はしないだろうが、今回はその話しではない。今は新型コロナウィルスが流行っている。最初は、自然災害のようなものなのかと、あるいはサーズやマーズのように局所的に押さえ込む対岸の火事のごとし、この事態を見守っていたが、世界的な流行と共にこのような事態はかつて経験したことのないことだと思うようになった。およそ100年前人類はスペイン風邪の世界的流行を経験しているが、たぶんそれを覚えている人はもういないだろう。引きこもり問題をリードするロストジェネレーションが日ごろ意識させられてきたのは、50年前くらいの戦後であり経済成長時代であったが、100年前を今に重ねて考えていくとき、なかなかに興味深いのだった。
第一次世界大戦が終結したのが1918年である。「戦争を終わらせるための戦争」ともいわれたこの大戦が背景にもあって、スペイン風邪は大戦終結後も1918年から3年間世界中で流行する。ちなみにスペイン風邪という名前は、スペインが一番の被害にあったわけではなく、スペイン発祥という意味でもなく、大戦下でも情報統制されていなかったスペインで大きく報じられたことがその名の由来のようである。日本でも3年間で人口の半数近くが感染したとされていて、致死率は感染者の1%を越えている。今で言うインフルエンザのようなものらしいが、分からないことも多く戦時下で今よりはきつい情報統制の中、ばたばたと人が倒れていくわけだから、さぞかし混乱もしたことだろう。同じ年には日本では米騒動が起こっている。大戦後日本は好況ではあったようだが、米価が上がり賃金が下がるなかで人々の生活は困窮し、富山の魚津の婦人たちが生活難で抗議したことがその始まりだった。その後、暴動やストライキが全国に波及したとされている。スペイン風邪の流行とどれほど関係があるのか分からないが、学者や政治家、官僚が主導したのではない大正デモクラシーのハイライトであり、その流れはメーデー(1920)や水平社(1922)普通選挙法(1925)など当時の民主化運動は広がりを見せる。世界でもロシア革命(1917)ドイツ革命(1918)中国共産党(1921)など、国が従来の形を大きく変えていった時代であった。それらのことがのちの15年戦争や第二次世界大戦へと繋がってもいくことも見過ごせないが。日本がアメリカやヨーロッパ諸国から差別を受け不平等条約を結ばされ、近代化を目指して50年後の行き詰まりであり、岐路に立っていたようなときに、スペイン風邪は日本でも猛威を奮っていたのであった。
話しは戻って、新型コロナウィルスが世界を席巻している100年後の現在、時代は変ったがどうだろうか。2,30年前世界経済はまだ元気で、日本の経済成長は終焉を迎えていたが、投資先や市場があったので、資本主義社会や自然科学は進化したようなものとして、私たちの生活のほぼ全てを支配しているような時代では、100年前と比べたらずいぶんと世界は良くなったと勘違いできたかもしれない。だが、自然災害は以前にも増して脅威で、克服されたと思っていた感染症は少し形を変えてやってきた。今でも戦争はやっていて、植民地主義的経済政策、差別のあり方も普段は見えないようにさせられているだけで100年前と変っていない。何よりも日本も含め、戦争による被害者感情は残ってあるものの、戦争をした加害者としての反省はまるでない。生産流通物は多くなり、お金さえあればこだわりもなければ一人で生きられるようでもあるが、多くの人は孤立して、関わりが薄いからこそ問題にされていないことが、災害などが起こるとたちまち問題となる。このような非常時でさえ、国や金しか頼りはないのか。香港のことやアメリカの人種差別問題は自分たちの問題でもあって、私たちが何とかしなければならないのではないか。
さて、新型コロナ騒動はたぶんしばらくは続くだろう。国や県レベルの政府は経済活動優先か感染拡大防止の間で政策がゆれ続けることになりそうだ。この期間は生き延びることが何よりも優先はされるだろううが、この感染が収束するときにはたして「復興」のようなことで生活は元に戻るだろうか?移動が制限されている現在、身近な人とどのようにすれば自分たちが生活していけるのか、どのようにすれば集まれるのかを話し合うにはいい機会ではないか。各地で凋落ならぬ町落共同体ができていけばいいなと想像している。公民館はいち早く閉鎖され、退職した団塊の世代前後が中心となっている自治会は機能していない。金融緩和で企業を強くして社会保障労働をさせても、発達障害など個人にだけ障害を押しつけて福祉労働させても、引きこもり問題も虐待問題も差別の問題も解決はしない。自分さえよければいい、自分のことだけ考えればいい、自分のこともできないで他人のことを心配しても仕方がないなどの倫理なのか道徳のようなものはこの感染状況下では役に立たない。経済成長下に経済活動といわれてきたようなことが重要なのではない。できるだけお金に頼らない生活のほうが今は大事なのだろうし、コロナ騒動明けには世界は少し変化しているかもしれないが、それは他人事ではない。
2020年7月18日 高橋 淳敏
6月20日(土)14時からクロスパル高槻で開催されました。
14名参加でした。(内家族の方4組)
冒頭は、子どもが学校でもらってきたお知らせの「自己責任」という言葉について話しました。
この言葉は他者から言われる時は「私は無関心である」と突き離すような意味であり、自分のしたことについて自分が言う時は自分だけが悪いと責める言葉でしかなく、
結局「責任」なんてどこにもないことになる。
責任とは外から個人に向かうものではなく、個人から外へ向かうものだと感じた。
引きこもりについて言えば、「引きこもっている状況は自己責任」などではなく責任という言葉を使うなら、社会にいる私たち個人が社会(他者や地域)への関心を持って一緒に考える責任を果たしていないこと。
そして同じように引きこもっている本人も社会(他者や地域)に対して問題があるなら声をあげていく責任を果たしていないことで使う言葉なのだろう。
皆さんの話からは、親自身が社会や学校、家庭において小さな頃から「人に迷惑をかけないように」と聞かされてきて、それを知らず知らずのうちに子どもに伝えている。その言葉は引きこもりの状態にある人にとって、自分を縛り付ける言葉となる。
人に迷惑をかけないためには自分一人で何でもできて完璧でなくてはならない。
そんなこと自分にはできない。それなら動かず、誰にも会わなければ迷惑をかけずに済む、と…。
これは間違いで、誰でも外に出て歩いて生きる事をしていれば失敗をしたり、誰かを頼ったりしながら、知らない間に人に迷惑をかけてしまう。
「人に迷惑をかけてはいけない」と「人の嫌がることをしてはいけない」とは同じではない。
大人たちが子どもに伝えるならば、人の気持ちを想像してその人が嫌な気持ちになることはしてはいけない。
でも生きていく上で必ず迷惑をかけてしまうことはある。かけてしまうと同時に誰かに迷惑をかけられることもある。
その時に助け合えることこそ、生きる事の一番の醍醐味なんだと。
7月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
いきなりですが、なぞなぞです。これは今年度5月に「高槻市立小中学校における携帯電話の取り扱いに関するガイドラインについて」という一枚紙のお知らせで、教育委員会や各学校長の連名で保護者に向けて配られたものです。内容は、生徒たちの携帯電話の校内持ち込み禁止のこれまでの方針を見直し、一部持ち込みを解除したものらしいが、さて以下に提示された携帯電話の取り扱いに関する「基本的な考え方」に沿って、教師や保護者が子どもたちにどのような態度で向き合えるかを考えてみてください。重要と思われる部分を枠に囲ってあって、以下(全文)のように書かれてある。
基本的な考え方
(1)携帯電話は、小・中学校における教育活動に直接必要のない物であることから、学校への持ち込みは原則禁止とする。
(2)登下校時に携帯電話を持たせるか否かは保護者の判断とする。
(3)校内での携帯電話の保管は、自己責任とする。
(4)校内での破損・紛失・盗難等に関して、学校は責任を負わない。
(5)ルールに従わずに、校内で携帯電話をかばんから出したり、使ったりした場合は、学校が携帯電話を預かって保護者に直接返却し、学校と保護者が協力して指導する。
この文面からも分かることとして、まず学校教育側が学校への携帯電話の持ち込み禁止を一部解除したのは、昨今の通信技術が盛んになった社会を前提に、その技術の習得や馴れさせるための学習目的ではないことは確かである。登下校時に携帯電話が必要となる理由は、この「基本的な考え方」の枠外に書いてあったが、子どもが登下校時に災害や犯罪に巻き込まれた際の緊急連絡手段や犯罪抑止力のためである。だが、一部の保護者たちが主張したのだろう緊急連絡手段や犯罪抑止力に役立つと学校側が認めたのであれば、(1)のように学校側が携帯電話の持ち込みを原則禁止とするのはまずおかしい。むしろ、全校生徒に携帯電話を持参させなければ指導として示しもつかない。災害発生や犯罪は特定の誰かに決まって起こるのではない。携帯電話程度で安心できるのならば、登下校を地域で見守ってくれている方たちの存在を子どもたちは疎ましく思うことであろう。携帯電話があれば、地域の見守り活動なんて必要ない意見が出てくれば、携帯電話を持たない子どもたちの安全安心は脅かされることになりはしないか。
そして、この全項から発せられているのは、学校教育側は携帯電話の存在には関知しないとの立場表明である。この紙面は携帯電話を持たせるか否かは全て保護者の責任とする学校責任逃れのためのアリバイ通達なのであった。ここでいう携帯電話とは要するにスマホのことであるが、知らない方も多いだろうが特に今は中学校の部活動などの連絡手段としてLINE(スマホに入れる連絡ソフト)が必須のことも多く、顧問の教師が生徒のLINEを通じて連絡しているのだから、教師たちは生徒がスマホを所持しLINEアプリを入れている保護者や生徒に依存している。それにもかかわらず(4)では破損、紛失、盗難に関しても責任をとらないのは、それが携帯電話でなくとも例えば水筒であっても学校内でそのようなことがあれば、学校側が責任をもって破損紛失盗難の原因に率先して取り組んでもらわなくては困るわけで、いったいどういうつもりなのか。ついでに争いごとやいじめも放置するつもりなのだろうか、教育とはいったい何なのか。学校側が弁償しないといった意味ぐらいのことなのかもしれないが、持ち込みを認めるくせに、無責任な言い方ではないか。
さて、今回この文面で一番気になった言葉は(3)に出てきた「自己責任」であった。今の学校教育が本音として「自己責任」なるものを教えているのは知っている。それは、私が学生時代であった30年以上も前から続いていて、「建前」「本音」が逆転することはあっても、学校教育は受験学習をベースにしており、他に「教育」としてやることを失い続け、もう涸れ果てていることを知っている。「自己責任」の根本は、学習指導要領に則ったことは教えるが、それ以外は各自勝手にしてくださいという学校側の教育無責任にある。
たぶん、教師から生徒に対して「自己責任」という言葉は日常的に使われており、今さらこのような文面で見た所で驚きもないが、この文章は保護者に当てたものであり、この直接的な訴えに対しては応えなければならないだろう、それこそ社会的責任について考えたのであった。個人の「責任」は、自分以外の人や社会に向けてあることであって、自己責任のように人や社会から個人に向けられるのであれば、人や社会が個人に対して果たすべき責任として考えなければならない。(3)の文章が携帯電話の保管はちゃんとしましょうという生徒への呼びかけであったり、保管は保護者責任とするなら分からなくもない。でも、ここで生徒に対して自己責任なんて言葉を使うのは、学校教育が生徒に対して果たすべき責任を考えているのではなく、携帯電話の紛失盗難破損も含めた所持利用による結果責任は自分で負えと命令している。そこで(4)項目にも繋がっていくが、紛失しようが壊されようが盗まれようが学校側は、そのような事態が起こったことにすら関知することも放棄すると宣言している。要するに自己責任とは、私たちは知ることやましてやトラブルになった説明をする義務もなく学校側には一切の責任はないとの主張である。ここでも「自己責任」とはその発言主体の無責任を意味するだけの言葉である。(5)では、ここでいう「ルール」というのが何を指しているか明確にされていないし破綻しているが、保護者と協力して指導といっても、そもそもスマホやLINEが子どもたちや教育に及ぼす影響についてすら考える気が微塵もない学校側とどのようにして協力できるのだろうか。さて、このように無責任な学校施設で教育従事者たちは被教育者に何を教えることができるのか。教室管理者たちに同情することもないではないが、それが一番のなぞである。このような学校制度に従属する教育者といわれる者の態度によって、直接被害を受けるのはいつも学生たちである。前代未聞の全国公教育施設停止期間があって、少しは日ごろの反省をする時間があったかもしれないと思っていたが、さらに酷くなるようである。二次被害はすでに教育施設で起きている備えよ。
2020,6,19 髙橋淳敏
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