NPO法人 ニュースタート事務局関西

5月定例会報告

By , 2020年6月17日 12:30 PM

 5月16日(土)駅前事務所にて開催されました。5名参加でした。
引きこもっている今の状況を否定するわけではないが、家にいて誰とも会わない事を続けていても良くはないだろう。
 親と子の会話、コミュニケーションをどうすればよいか、話しかけても返事が無い、怒るなど。引きこもりの状態にある子と親が良いコミュニケーションを取れるという事は無い。良い関係になるには心理的にも物理的にも距離をもつ必要がある。
 一人暮らしについて。外とのつながりがなければ急に一人で暮らしても孤立してしまう。親にできる事とは、外に繋げる、背中を押す。どうすればよいのか、タイミングがあるのかなど話し合われました。

「日常と生活~施設論序章~」髙橋淳敏

By , 2020年5月29日 6:10 AM

 暖かい蕎麦を作ろうとした。5月にしては少し寒い朝だった。昼ごはんの仕込みに揚げさんを炊き、かつお出汁を取っていた。それを横目で見ながら、朝ご飯の後始末をしていた上の子が「温かい蕎麦?冷たい方が良かったな」と言った。そうか、ざる蕎麦かそれもいいと思ったが選択を間違ったな、もはや引き返しにくい手順を考え直して「今日は涼しいし、これから温かい蕎麦は食べにくくなるし」と言い訳をした。それはもう一方的な温かい蕎麦宣言となっていた。当然、上の子からの返答はなかった。加えて、いい機会と思ってしまい、夕食に食べたいものを聞くと、いつものように「ない」とだけ返ってきた。もし、昼ごはんを仕込む前に「温かい蕎麦か冷たい蕎麦どちらがいいか」と聞いていたら、どちらでもいいと答えたのか、冷たい蕎麦と答えたのかは分からない。いずれにしても過ぎた質問を繰り返すことになってしまった。最近は、こどもの分も含めて、昼夜と調理する機会が増えたので常にレパートリーというか作り手の食欲満足で、こどもに何か食べたいものはないかと聞く機会は増えたが、そのような時の返答は大体口を揃えて「ない」ということで、4月後半にはもう諦めていたのだった。だけど、例えばこどもに玉子焼き(明石焼)しようと言うと「それがいい」と返ってくるだろう好みを少しは知っている。それで玉子焼きを美味しくしようと、3月にはじん粉を明石の魚の棚まで調達しに行った。近くに寄ったついでではあったが。さらには、こどもは肉や魚介類など食べたいと親に要求しても実現しないだろうメニューを知っている。例えば、下の子はここ3、4年くらいカニを食べたいと言っているが、食べられていないというか、まだまともにカニを食べたことはない。カニカマくらいは食べているが、親のカニに対する欲目なのか、予算とシチュエーションがそれを許さなかった。いや、食べる方がいいとは思っているが、ここまできたら親から与えられなかった食材があるのもいいだろうとか考えたりで、そのような逡巡含みで、我々の食卓からカニ食を遠ざけることになっていた。一方で、夕食を囲いながらカニの話題で雰囲気がまずくなることもあれば、盛り上がることもある格好のネタになった。しばらくは。

 

 食欲は作り手の欲望でもある。多くは親が作り、子が食べるのだが、そこで子は自らの食欲を満たそうとしながら、親の欲望を知る。親はこういうものが食べたいのかということと、こういうものを子に食べさせたいのかということ、食欲に向き合う態度まで、子は知ることになる。そういった日常は、親から何か食べたい物はないかと聞かれて子が「ない」と答えることでもあり、親が子の食欲に応えきれなくなることでもある。外食はそういった日常の束の間の休息でもあり、他者の欲望であり自身の食欲を知ることでもあったわけだが、今回は学校給食も含めてその機会がなくなった。子の食欲はあらゆる親の選択肢の中で「ない」と答えることであり、我が家にとってはカニのように家では叶わないものとなったのだった。この仄暗い光で引きこもり家庭を照らして見るならば、食欲に限ったことではない。親は子に対して考えられるだけの外へ選択肢を提示することとなるが子は「ない」と答えるしかなく、子は今まで経験したことのないことを欲しながらも家では叶わぬことになる。食欲の担い手である子が外へと出ていかなければ、家の施設化は避けられなくなる。施設とは、人の生活を守るための設備ではあるが、風通しも悪く統治や管理などと結びつくならば、力を持つ者が施しをする場や設備へと、その本来の機能へと純化し、それぞれの欲は自粛される。家は不断の風通しによってしか施設化を免れないのだ。台所や備品など設備を使う権利が家人に保障されているのは当然のこととしても、家以外での調理や食べることのできる場が担保されていなければ、家人の生活の自由は保障はされない。プライバシーを保護するとしても、それは人を部屋の中に閉じ込めておくことではない。部屋や家以外での食のための活動を保障していくことである。

 

施設は大概の場合は閉じられている。施設内から開くことを常に努めていなくてはならないし、それでも外からの来訪者(他者)がいなければたちまちにして閉じられてしまう。今回の都市封鎖なる事態は、病院施設の崩壊を危惧するところから始まった。そもそも感染拡大のための対策は医療の仕事ではない。日常から医療従事者が病院という大施設に隔離されていたことが、この大きな事態へと発展したと考える。公民館なんかは便利な施設ではあるが、そこでしか集まりができないとなるとたちまちにして自由は奪われてしまう。それでも公民館でしかできないならば、それを使う人たちとの常なる協力が必要であったろう。今の核家族の中での親子関係が良いか悪いかは別にして、施設化に抗うような努力がされているとは思えない。今回、公民館自体が率先して長期間に渡り閉鎖されたのは、そこが人の生活を守るための施設ではなく、権力者が施しをする場や設備であることの証明ではなかったか。

2020年5月28日髙橋淳敏

6月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2020年5月17日 7:24 PM

6月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

6月20日(土)14時から (257回定例会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】

5月の例会開催しました。

By , 2020年5月17日 7:22 PM

5月16日(土)。毎月第三土曜日に開催している定例の勉強会を行いました。また報告いたします。

4月の例会報告です。

By , 2020年5月17日 7:19 PM

4月18日(土)この日は3名参加。カフェコモンズでの開催でした。
今の社会の状況は引きこもりの状態にある人にとってどうなのか。みんなが家にこもり、学校にも登校しない今、家にあった居場所は以前と違う環境になってしまっている。動け、外に出ろという視線を感じ続けてきた人たちにとっては、逆のことをみんなが強制されている中でどんな気持ちの変化があるだろうかなど考えました。もしかしたら、外に出てもいいかもと思う人もいるかもしれないが、みんなで集まる場所を作るのが難しい。だからこそ工夫をして出てこられるような場をつくれたらと。
 家にいろ外に出るな人に会うなと言われる事はしんどくもありますが、どこかほっとするような、人に会わなくても外に出てお金を使わなくても変わっていると思われないんだという安心を感じました。こういう状況になってみて初めて、人は休みの日や時間が空いてる日には人に会って外に出てお金を使って遊ぶことが良い事だと思わされていたんだとわかりました。旅行に行ったり習い事をしたり飲み会をしたり、休む暇なく時間に追い立てられていたことに。少し前に久しぶりに読み返した「モモ」を思いだしました。
 そうではなくて家の中で毎食じっくりと食事の用意をしながら生活のための用事をして、いつもより家族と長い時間過ごし、散歩に行ったり、今の社会の状況をみんなで話し合ったり勉強したり、自分自身の生き方を振り返ったり、とても大切な時間を過ごせていると実感します。いっぱい稼いでお金がたくさんある状態になって初めて幸せが訪れるという考えが現実ではないことに多くの人が気付き始めれば、今の社会のあり方は少しずつ変わっていけるのかもしれない。私たちに対して高い生産性しか求めてこない社会では、その事に疑問を持って立ち止まって考え生産しない人がいると、お互いに見張ってその人を非難することでしか安心しない。周りに流されないで、目の前のその人独自の良さを見つめてお互いにできることを尊重し合いたい。時間はいっぱいあるはずです。

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