5月11日(日)鍋の会開催しました。6名参加でした。この日は、これからこれ以上暑くなったら鍋食べれるのか…という不安がよぎる、まぁまぁ暑めの日でした。豆乳鍋が食べたいという声があり、異論はなかったので豆乳鍋の方向で話が進みました。どうやって作るのかはっきりとはわかりませんが、とりあえず和風だしの鍋汁を作ってそこに豆乳入れたら何とかなるだろうということで、買い物組が帰ってきてから野菜切って少し味をつけたお汁に入れてお肉も入れてから最後に豆乳を入れ、沸騰させないようにしてできました。でも二回目以降は継ぎ足した野菜やお肉に火を入れるためにどうしてもふつふつと煮るので豆乳がもろもろっと固まってもきましたが、それはそれで美味しい。この日の自己紹介テーマは「思い出の味」。実は豆乳鍋と言い出したのは私なのですが、私にとっては友人とお泊りする時にお金を出し合って材料を買って自分たちで簡単にできて嬉しかった味でした。意外と悲しいことに思い出の味というのは親が毎日用意してくれてたご飯というよりは、自分の力で作ったり食べに行ったりした物の方が強く覚えている気がします。自分で得ようとして得たものと、座ってたら勝手に前に出てきたものを食べることの違いなのかな。みんなの話では、部活終わりに先輩からもらって食べたおにぎりの味や、ハンバーガーが65円で買えたあの時代に4個も5個も買ってお腹いっぱいにしたことや、学生の時に寮生活だったときのご飯に髪の毛が入っていたことなど、おいしいだけではない思い出が聞けておもしろかったです。鍋の会の鍋はたくさん食べすぎてどれか一つと言われてもあげれませんが、400回記念でオールナイト鍋の会(夕食、朝食、昼食と鍋でした)をした時の最後の方のつぎたしてこってこてした豚キムチの味が印象的です。そろそろパン食べたいなと思いましたね。それではまた来月も暑くても鍋の会やります。ぜひご参加ください。(くみこ)
4月19日(土)11名参加(内家族の方は6名)でした。先月の通信の文章から障害について。「引きこもり」が発達障害かという話ではなく、「障害」に近い意味で使われている。障害は「持っている」と言われる。でも実際は障害者と言われる人が持っているのではなく例えば段差や階段など社会の側にある。
「引きこもり」はその本人に問題があるわけではなく、社会の側に、受け入れる側に問題がある。でも、自分が悪いんだ、自分が人よりできないんだと自分を責めることは自分一人でできる作業だから誰とも関わる必要がない。他には、自分の今のこの状況は親のせいだと親を責めることはどうか。これも親は例え言い返してきたとしても、他人とは違って完全に責めてくることも縁が切れることもなく、結局自分自身を責めるのとそんなに違わない。そうではなく、こんなに一生懸命生きているのに生きにくいのは社会の仕組みがおかしいのではないか、という考え方をすると自分一人でいてもいつまでも解決しない。一歩外に出て、同じような苦しさを感じている人たちと話したり、社会を変えようとするなんて難しいことだと思うかもしれないが自分たちの意見を言い合ったり話をすることでしか始まらない。
引きこもっていると、自分も親もできていないことにばかり目がいってしまう。でも本当にそうか、できていることもたくさんあるのにそれを本人も気づけず自信を持てないでいる。できていることもわかっているよという関わり方ができれば。例えばご飯を部屋の前に持っていかない。そんなことしなくても自分で食べにこれると信じている。親がご飯を作れなかったり家の用事ができない時は親は無理をして子どもにはできないだろうからとやってしまわず、やっておいてねと任せる。一人暮らしに興味があるなら具体的にどうやっていくか話してみるなど、子がやろうと思えばできるだろうと信じられているか。
引きこもっている本人は、「○○ができるようにならないと外にでれない。人と関われない。働けない。」「働いてお金を稼がないと一人暮らしはできない」など今の自分のままでは何もできないから、今よりパワーアップしてからしかできないと思ってしまいがちだろう。でも実はその考えではいつまでたっても動けない。今のままの自分でいいんだと肯定できないと動き出せない。だから今の自分より良くならないと行くことができないと思うような場(実はそういう場も今のままの自分で全然大丈夫なのだけどハードルが高いと怖くなってしまうので)ではなくそのままの自分でも行けそうな場から練習していければいい。そういう場として鍋の会や例会も使ってもらえたらと思う。(くみこ)
被障害者の時代
誰に求められているわけでもなく、誰に言われているのでもない。ここに文章を書くという行為、月に一度、社会的な引きこもり問題に関する話題を提供しているつもりで書いている。さみしくも、ほとんど応答や反応もない。元からと云えばそうだが、同じ人が同じテーマで15年以上前から3000字弱、200くらいは投稿しているのだから、書いた私も把握できていないわけで。最近よくあるのは、新たな見解だと意気揚々と書き初めたものの、「あれ、これ前に似たようなこと書いたな」ということがある。それで、今回も3年前に書いた「障害者とは誰のことか」という文章と酷似する内容になりそうだったので、これを新たな試みとして、自分の文章を書き換える形で掲載した。書く中で新たな見解も見出せた。内容は似てはいますが、ほぼ全文書き換えることになりました。以下。
病気は治ると言うが、障害は治るとは云わない。病気は治らないこともあるが、良くなるのも悪くなるのも過渡的な状態であるから時々に変化する。だから、自然治癒であろうと病気は治ることがある。障害は、身体の一部欠損などを、個体が変化しないことの意味が含まれている。だから、変化することや治ることは「障害」という言葉の中には意味されない。一方で、病気も障害も「持つ」ということがある。「あの人は病気である」とも云うし、「私は障害を持っている」とも言う。この「持つ」という場合、病気や障害が主語になっても区別されないことがあるが、特に「障害を持っている」と言われることに違和感がある。この違和感を「持っている」人は多いと思う。一つは、単純に障害は「障害者」と言われている人が持っている物なのか?という問いに対する応えが難しいことである。先の身体の欠損などを意味することではあっても、それは「持っている」ことではない。あえて云うなれば、欠損した身体を「持っている」ことになるが、そんな言い方があるだろうか。例えばこれは、国籍の違う親から産まれた子どもを「ハーフ」という言葉に似ている。「ダブル」が正しいとも思わないが、欠損していることの方を強調して、名指されていることになる。「障害者」は、常に欠損した身体を持っているということが、自らを代表していることになる。それを、「障がい者」とか「障碍者」とかとして、害の字を入れ替えても、健常者や障害者の認識は変わらない。「ひきこもり」という言葉もそれに似ていて、差別用語である。誰もが、そんな風に言われ続けることは本意ではないはずだ。
さて、身体の欠損などではなく、「障害」はどこにあるだろうか?これはあちこちでよく例にあがる話しでもあるが、車いすに乗っている人にとっての障害は段差にある。階段や段差があって、その先に進めないのは、段差が障害物となっているからである。最近は「合理的配慮」などと言われ、「バリアフリー」など障害を社会の側が取り除こうとする動きがよく見られる。車いすに乗る人が多くなったこともあるが、個体が変化しない治らない意味が含められた「障害者」であれば、彼らにその障害を取り除くことこそ不可能である。少なくとも、障害は「障害者」と言われる人とそうではないとされる人や社会の間に存在する。例えば、このまま車いすに乗る人の方が多くなり、その人たちに便利がいい家などが開発されて、天井が低かったりするのであれば、その生活や家での「障害者」は普段は健常者と言われる人がなることもある。それでもっと言えば、障害は「障害者」とそうではないとされる人や社会の間にあるが、どちらかというと「障害者」ではない側、社会やそうではないとされる人の方が「持っている」設けている物ではないか。
以前、就職氷河期世代における面接テーブル上の、買い手市場と売り手市場のコミュニケーションの180度転回。コペルニクス的転回から、ポストモダン時代に「コミュニケーション障害」などとされている物の正体を暴いていったが、「障害」と言われる物を個人が「持つ」ことの不可能性については、この障害概念からも分かるだろう。難しい要約になるかもしれないが、「障害者」と呼ばれる事態は、社会的に欠落した存在であることを、そうではないとされる人や社会の側から一方的に強要され続けていることでもある。しかも、「障害者」と言われた人には、その状況を独力では変えることはできない。一方的なデスコミュニケーション状態でもあり、社会が設けている障害を「障害者」に押しつけていることになっている。さてここでもコペルニクス的転回が必要になりそうだ。何の躊躇もなく「障害者」とした近代(モダン)、障がい者や障碍者などとお茶を濁した次世代(ポストモダン)、新近代(ニューモダン)は「被障害者」の時代になるのではないか。今、隆盛し始めているAI(人工知能)などと比べると、多くの面で人という存在自体が、今は障害者と言われている「被障害者」になるのではないか。
考えてきたように障害はどちらかというと、「障害者」ではなく、そうは呼ばれていない人や社会が現在、設けている物である。その点において、あえて言うなれば「障害者」は、障害を被っている人として「被障害者」という方が妥当である。では、お茶を濁されている現代においての「障害者」とは誰なのか。それは、「被障害者」を「障害者」だとしている社会や、その仕組みの中で生活する人である。簡単に言えば、多くの「私たち」こそが、押しつけている障害を持っている「障害者」である。それに私たち「障害者」は、設けた障害を取り除くことが可能である。「ひきこもり」も、ほぼ同じようにその概念を転回することができる。漠然とでも、何かを「ひきこもり」と名指した瞬間、その社会や人が「ひきこもり」になる。そして「ひきこもり」になったと認識した私たちこそが、引きこもらないことが可能になる。まず、そのように考えることができれば、世界の夜明けも近い。
2025年4月19日 髙橋淳敏
5月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
5月17日(土)14時から (314回定例会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。
詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
日時:5月11日(日)12時~16時 第505回
みんなで集まってから何鍋にするか考えて買い物に行って鍋を作ります。実はこの時期が一番熱い!暑い!鍋の会だったりします(^^)(真夏はクーラーをつけていて優雅な鍋の会になることもあり。)
初めての方も久しぶりの方も大歓迎です。参加される方は必ず申し込み下さい。
場所:「へそでちゃ」(JR摂津富田駅から徒歩15分弱)
待ち合わせ:11時45分JR摂津富田駅改札口
現地に来られる方は12時までに来てください。
参加費:カンパ制
参加資格:鍋会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加