NPO法人 ニュースタート事務局関西

「町落共同体のススメ」高橋淳敏

By , 2020年7月19日 9:04 AM

 毎年のように、台風や大雨による自然災害が続いている。高槻では2年前に大阪府北部地震があった。その年は、台風も大阪に直撃した。今年は全国的に長雨が続いている。もうあまり梅雨とも呼ばなくなっているのか。雨季とでも表した方がいいのかもしれない。熊本などで河川が氾濫したり、各地で土砂崩れなどの大きな地形変化が生じている。気候変動なのか、自然が猛威をふるうことに毎度馴れはしないが、変化とも言い移ろいでもあり、いろんな表情を見せる自然に翻弄されながらも、それでも渦中にあって生きた心地はどこかにあった。阪神淡路大震災では、揺れている数分の間は生きた心地もしなかったが、揺れが収まってからは、私たちが常日頃向き合っているのは人間であり自然なんだと気づかされるような経験であった。都市部に住んでいたら、普段は隠されていて見えにくい人や自然の力があった。それと比べたら、東日本大震災後の原発事故は今でも生きた心地はしないだろうが、今回はその話しではない。今は新型コロナウィルスが流行っている。最初は、自然災害のようなものなのかと、あるいはサーズやマーズのように局所的に押さえ込む対岸の火事のごとし、この事態を見守っていたが、世界的な流行と共にこのような事態はかつて経験したことのないことだと思うようになった。およそ100年前人類はスペイン風邪の世界的流行を経験しているが、たぶんそれを覚えている人はもういないだろう。引きこもり問題をリードするロストジェネレーションが日ごろ意識させられてきたのは、50年前くらいの戦後であり経済成長時代であったが、100年前を今に重ねて考えていくとき、なかなかに興味深いのだった。

 

 第一次世界大戦が終結したのが1918年である。「戦争を終わらせるための戦争」ともいわれたこの大戦が背景にもあって、スペイン風邪は大戦終結後も1918年から3年間世界中で流行する。ちなみにスペイン風邪という名前は、スペインが一番の被害にあったわけではなく、スペイン発祥という意味でもなく、大戦下でも情報統制されていなかったスペインで大きく報じられたことがその名の由来のようである。日本でも3年間で人口の半数近くが感染したとされていて、致死率は感染者の1%を越えている。今で言うインフルエンザのようなものらしいが、分からないことも多く戦時下で今よりはきつい情報統制の中、ばたばたと人が倒れていくわけだから、さぞかし混乱もしたことだろう。同じ年には日本では米騒動が起こっている。大戦後日本は好況ではあったようだが、米価が上がり賃金が下がるなかで人々の生活は困窮し、富山の魚津の婦人たちが生活難で抗議したことがその始まりだった。その後、暴動やストライキが全国に波及したとされている。スペイン風邪の流行とどれほど関係があるのか分からないが、学者や政治家、官僚が主導したのではない大正デモクラシーのハイライトであり、その流れはメーデー(1920)や水平社(1922)普通選挙法(1925)など当時の民主化運動は広がりを見せる。世界でもロシア革命(1917)ドイツ革命(1918)中国共産党(1921)など、国が従来の形を大きく変えていった時代であった。それらのことがのちの15年戦争や第二次世界大戦へと繋がってもいくことも見過ごせないが。日本がアメリカやヨーロッパ諸国から差別を受け不平等条約を結ばされ、近代化を目指して50年後の行き詰まりであり、岐路に立っていたようなときに、スペイン風邪は日本でも猛威を奮っていたのであった。

 

 話しは戻って、新型コロナウィルスが世界を席巻している100年後の現在、時代は変ったがどうだろうか。2,30年前世界経済はまだ元気で、日本の経済成長は終焉を迎えていたが、投資先や市場があったので、資本主義社会や自然科学は進化したようなものとして、私たちの生活のほぼ全てを支配しているような時代では、100年前と比べたらずいぶんと世界は良くなったと勘違いできたかもしれない。だが、自然災害は以前にも増して脅威で、克服されたと思っていた感染症は少し形を変えてやってきた。今でも戦争はやっていて、植民地主義的経済政策、差別のあり方も普段は見えないようにさせられているだけで100年前と変っていない。何よりも日本も含め、戦争による被害者感情は残ってあるものの、戦争をした加害者としての反省はまるでない。生産流通物は多くなり、お金さえあればこだわりもなければ一人で生きられるようでもあるが、多くの人は孤立して、関わりが薄いからこそ問題にされていないことが、災害などが起こるとたちまち問題となる。このような非常時でさえ、国や金しか頼りはないのか。香港のことやアメリカの人種差別問題は自分たちの問題でもあって、私たちが何とかしなければならないのではないか。

 

 さて、新型コロナ騒動はたぶんしばらくは続くだろう。国や県レベルの政府は経済活動優先か感染拡大防止の間で政策がゆれ続けることになりそうだ。この期間は生き延びることが何よりも優先はされるだろううが、この感染が収束するときにはたして「復興」のようなことで生活は元に戻るだろうか?移動が制限されている現在、身近な人とどのようにすれば自分たちが生活していけるのか、どのようにすれば集まれるのかを話し合うにはいい機会ではないか。各地で凋落ならぬ町落共同体ができていけばいいなと想像している。公民館はいち早く閉鎖され、退職した団塊の世代前後が中心となっている自治会は機能していない。金融緩和で企業を強くして社会保障労働をさせても、発達障害など個人にだけ障害を押しつけて福祉労働させても、引きこもり問題も虐待問題も差別の問題も解決はしない。自分さえよければいい、自分のことだけ考えればいい、自分のこともできないで他人のことを心配しても仕方がないなどの倫理なのか道徳のようなものはこの感染状況下では役に立たない。経済成長下に経済活動といわれてきたようなことが重要なのではない。できるだけお金に頼らない生活のほうが今は大事なのだろうし、コロナ騒動明けには世界は少し変化しているかもしれないが、それは他人事ではない。

 

2020年7月18日 高橋 淳敏

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