『360回目の鍋』
10月25日。少し肌寒くなってきたこの季節の中、本日も鍋の会が行われます。
むしろ今だからこそ美味しい鍋が食べられるのです。少し辛いものがいいかなと
いう話になり、完成したのがピリ辛味噌鍋。激辛にしちゃうと苦手な人が食べれな
いので、敢えてピリ辛程度に抑えておき、お好みで辛子や柚子胡椒などのスパイス
をかけて食します。心も体も温まった所で、「この為なら私は遠出をする」というテーマで自己紹介が始まりました。
このテーマを言い出したお方は、会場まで来るのに走って来たそうです。鍋の会の為に? と思ったらただマラソンの練習がしたかっただけのようでした。
『361回目の鍋』
11月8日。11月に入って特に寒くなってきた気がします。しかもこの日は雨が降っていて、よりいっそう寒さを肌で感じる日でした。というわけで今回も辛い系の鍋で行こうという話に。キムチ鍋にしようか迷いつつ、完成したのはトッピング形式でのキムチ鍋。キムチが入ってない状態の鍋が出てきて、お好みでキムチを各自で入れて食べる鍋です。この日買って来たエビ入りキムチが美味いという声が上がりました。トッピング形式なので辛さの調整も自由自在。
とてもナイスな試みでした。つぼい。
こうあるべきとする観念に縛られ、その息苦しさを誰に説明することさえ許されない。そんな時、誰とも何もつながらなくなる。
私が縛られていた観念は、立派な人にならねばならぬとする自分が自分に課した圧力だった。学生の時に高い進路を掲げた。親しい仲間や彼女や親から理解を得た。目標とする進路先に見学に行った際、無視され何も打ち解けることができず、そのことで望む進路を断念した。人間関係という理由で挫折したことを誰にも言えなくなった。
文字通り何日も誰にも何も言わなくなった。彼女や親友に愛想をつかされた。何より自分自身が許せなかった。周囲を裏切ったのではない、自分の血は潔癖なはずだ。ナイフを腕に当てたが、それ以上は動かせなかった。久しぶりに口から何かの音が出た。
高まる感情とぐるぐる回る思考の中で決めた。自殺できないなら精神的に死ぬしかない。私は自分をなくし、残った体に新たな何もない自分を入れる。自分を苦しめてきた観念、目標のすべてを自分から追い出す。しかしもぬけの殻で生きるつもりもない。悪魔との取引だ。私は私をなくす代わりに、私を苦しめる本当の敵をあばくという目標を新たに立てることで、せめて自分は自分が生きていることを許そう。
形としては進路を変え留年し大学院に進学した。考えるための時間を得るためだった。孤独が続き、自分と対話し続けた。自分を捨てるために、根本で正反対の自分になろうとした。それまでは他人とうまくできない、優秀でないことをいつも悔いていた。正反対のやり方は、自分にOKを出し続けることだった。毎日夜には一日を振り返り「問題ない。大丈夫だ」と自分に語りかけた。自分自身が自分の親になった。対人関係に揺れることがなくなった。この時期私は誰とも親しくなく何の結果も出していないゼロの人間だったが、今までの人生で一番貴重だった。
30歳を前にようやく社会に出た私は勤務初日から叱られた。隣の部署を訪ねることさえ怖かった。緊張がひどく机に向かっていると睡魔が襲った。電話を取るのが怖くて鳴ると机から逃げた。通勤途中で会社の人と出会わないかとびくついた。対人恐怖症が変わることはなかったが、逃げ出すこともなかった。
その後結婚して子供もできた。やがて新商品開発に成功し、自ら企画した大きな商品開発プロジェクトのリーダーとなり推進した。どの部署にも仲間ができた。結果ならいくらでも語れる。しかし、何も結果を出していない時の自分からすべては始まったのだ。
私を苦しめた本当の敵の正体は、家族の中で特に親しかった私の父親からの期待だった。わかってみれば何ともけち臭い敵だ。自分の子供が成人間近になるこの歳になるまでわからなかったことはうなずける。親は誠意で尽くしても子供にとっては害悪になりがちだ。
すでに悪魔と取引した私自身は人生の最期まで孤独で終わることを知っている。しかしニュースタートの若いみなさんは理解ある他者と対話できる。自分を変えることが良いとも限らない。他の人との差を見つめれば生まれるものがあるだろう。
「何もない今が貴重だ」
★12月の鍋の会★
第363回 12月13日(日)13時~17時
第364回 12月27日(日)13時~17時※持ち寄り鍋の会です。
今年最後の鍋の会は忘年会のような鍋会になりそうですね。
この日は持ち寄り鍋会になります。飲み物などは用意しておりますので、
何か一品を持ちよって、みんなで囲みたいと思います。
久しぶりの方も始めての方もぜひご参加下さい。
本人がなかなか動けない段階の場合は親御さんだけでもぜひご参加下さい。
鍋の会には寮生や、生きにくさを感じながら動こうとしている若者も参加しています。
自分の子とはなかなか話せないかもしれませんが、他の若者と話してみてください。声を聞いてみてください。
参加申込みは事務所まで、電話かメールでお願いします。
詳細はこちら
12月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
12月19日(土) 14時から (203回定例会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
ディズニーランドの敷地に一歩入ると、そこは俗世と隔離されている。年間パスポートというのがあって、日常生活から離れるためにか、毎週のように入場する人もあるという。ビル建物や高速道路などディズニーランド側が造作した以外の人工物が、敷地内のどのポイントからも一切見えないようになっていたり、ごみが落ちていなかったり、そのごみを拾う働く人までもが楽しげに振る舞うなど、他の遊園地などと比べてもディズニーランドは特に人(生活)のにおいがするものの排除が徹底されている。飲食も外から持ち込んではならない。そのようなフィクションの世界にいるからこそ、被り物である無言のミッキーマウスがその世界では雄弁に語りえるのかもしれない。ミッキーマウスは、いない時でもずっと笑っているし、楽しいでしょう!とずっと語りかけている。ジェスチャーが大きく、踊るくらいだが、ミッキーマウスにひどいことをする人はおらず、子どもまでもがその世界を壊すような行為を禁忌されている。泣く子も黙る(黙らせる)ディズニーランドである。用意されているアトラクションなどで遊ぶという目的以外にこの場所を使用することも禁止されているし、違う目的で楽しむことも禁止されている。ディズニーランドはあらかじめ仲のできている(できかけている)人と行く場所であって、あるいは一人で行く人もいるのかもしれないが、そこに出会いを求めに行く場所ではない。ニュースタート事務局の関東(千葉)は、近所にあることもあって、毎月のようにツアーを組んで行っていたようだが、それもディズニーランドに出会いを求めに行ったわけではなく、行った人で仲良くなろうとしていたのだと思われる。たぶん、ディズニーランドが嫌いな人なんていないだろうと。
引きこもりの世界は、真逆に自分で造作した以外の人工物であふれかえっている。引きこもりに限らないが、一般常識や資格など与えられている勉強はしようとしても、自分で物を作ったり、絵をかいたり、文章を書いたり、ほとんどの人はあまりしようとはしない。社会の問題についても、何か言ってそうな人の考えに沿うくらいで、人とは違った自分の意見などを思いついても表立って話そうとはしない。自分で造作したものを形としてあまり持ち合わせてはいない。それが情報であっても、不特定の他者が作ったものであふれかえっている。一方で特定の他者の匂いや他者の予期しない考えを排除できる環境であったりする引きこもりの閉じた世界は、ディズニーランドのそれと似ているともいえる。ディズニーランドや引きこもっている部屋で経験していることというのは、たぶんその時感じている面白いとか楽しいとかとはずいぶん違っていて、本当は不安であったり怖さであったり寂しさであったりするのではないだろうか。日常生活や将来の不安、人の怖さ、一人であることの寂しさ。ミッキーマウスの硬直した笑顔を私はそのようにしか見ていない。ミッキーマウス「楽しんでいるかい?」私「いや、あんたも楽しくはないだろう?」
先日の「鍋の会」で、自己紹介をしたときに、話せるならと与えられたのが「休みの日には何をしていますか」という題目であった。ディズニーランドに遊びに行きますといった人はいなかったが、今まで何度かあっただろうこの題目に、私はまたどう答えていいか迷っていた。休みの時はただ休んでいるだろうとか、引きこもりにとって休みの日とはなんなのかとか。でも質問者が意図しているのは、そういうことではなく、自分が自由に使える時間があるとしてその時に何をしているかという話なのだと、何人かの人が答える中でまとまってきた。でも、そうなるとさらにわからないことが出てきた。例えば自分で自由に使える時間があったとしたらディズニーランドに行きますと、答えるようなことなのだが、ディズニーランドに行くのは自由であっても、ディズニーランドは自由ではない。休みは自由に時間を過ごすことをいうのか、それとも何に使役するかを自由に選択できる日のことをいうのか。すべての人の答えは後者であった。では、休みの日は何かに使役することであって、それは休みなのだろうか?将来の不安からネット検索に使役するのも、気持ちを紛らわすためにゲームに使役するのも、何もやれることがなさそうでただ寝るのもそれは休んでいるのではない。何かが休みになっても、私たちが何からも自由になれる時間なんかはない。
だからこそ私は、ただ見させられているのではなく、見たい。ディズニーランドでミッキーマウスの笑顔や振る舞いを見させられているばかりでなく、その面をはがしてミッキーマウスの労働を知りたいのだし、ネットやテレビを見させられているばかりではなく、何らかを創作したい。見られることばかり意識して、うつむき加減でちらちら見るばかりでなく、見てくる人のことをじっと見返したい。それは交流なんかではなく、世界への信頼のようなものなのだろうが、ディズニーランドはそのような私の欲望の全てを取り上げられてしまう場所である。なら、行かなければいいのだが、ディズニーキャラクターが生活に紛れ込んでいるがごとく、そのような世界を拒み続けるのは至難の業だ。
高橋淳敏 2015年11月20日