NPO法人 ニュースタート事務局関西

「ディズニーランドへ」 高橋淳敏

By , 2015年11月22日 10:00 AM

ディズニーランドの敷地に一歩入ると、そこは俗世と隔離されている。年間パスポートというのがあって、日常生活から離れるためにか、毎週のように入場する人もあるという。ビル建物や高速道路などディズニーランド側が造作した以外の人工物が、敷地内のどのポイントからも一切見えないようになっていたり、ごみが落ちていなかったり、そのごみを拾う働く人までもが楽しげに振る舞うなど、他の遊園地などと比べてもディズニーランドは特に人(生活)のにおいがするものの排除が徹底されている。飲食も外から持ち込んではならない。そのようなフィクションの世界にいるからこそ、被り物である無言のミッキーマウスがその世界では雄弁に語りえるのかもしれない。ミッキーマウスは、いない時でもずっと笑っているし、楽しいでしょう!とずっと語りかけている。ジェスチャーが大きく、踊るくらいだが、ミッキーマウスにひどいことをする人はおらず、子どもまでもがその世界を壊すような行為を禁忌されている。泣く子も黙る(黙らせる)ディズニーランドである。用意されているアトラクションなどで遊ぶという目的以外にこの場所を使用することも禁止されているし、違う目的で楽しむことも禁止されている。ディズニーランドはあらかじめ仲のできている(できかけている)人と行く場所であって、あるいは一人で行く人もいるのかもしれないが、そこに出会いを求めに行く場所ではない。ニュースタート事務局の関東(千葉)は、近所にあることもあって、毎月のようにツアーを組んで行っていたようだが、それもディズニーランドに出会いを求めに行ったわけではなく、行った人で仲良くなろうとしていたのだと思われる。たぶん、ディズニーランドが嫌いな人なんていないだろうと。

 

引きこもりの世界は、真逆に自分で造作した以外の人工物であふれかえっている。引きこもりに限らないが、一般常識や資格など与えられている勉強はしようとしても、自分で物を作ったり、絵をかいたり、文章を書いたり、ほとんどの人はあまりしようとはしない。社会の問題についても、何か言ってそうな人の考えに沿うくらいで、人とは違った自分の意見などを思いついても表立って話そうとはしない。自分で造作したものを形としてあまり持ち合わせてはいない。それが情報であっても、不特定の他者が作ったものであふれかえっている。一方で特定の他者の匂いや他者の予期しない考えを排除できる環境であったりする引きこもりの閉じた世界は、ディズニーランドのそれと似ているともいえる。ディズニーランドや引きこもっている部屋で経験していることというのは、たぶんその時感じている面白いとか楽しいとかとはずいぶん違っていて、本当は不安であったり怖さであったり寂しさであったりするのではないだろうか。日常生活や将来の不安、人の怖さ、一人であることの寂しさ。ミッキーマウスの硬直した笑顔を私はそのようにしか見ていない。ミッキーマウス「楽しんでいるかい?」私「いや、あんたも楽しくはないだろう?」

 

先日の「鍋の会」で、自己紹介をしたときに、話せるならと与えられたのが「休みの日には何をしていますか」という題目であった。ディズニーランドに遊びに行きますといった人はいなかったが、今まで何度かあっただろうこの題目に、私はまたどう答えていいか迷っていた。休みの時はただ休んでいるだろうとか、引きこもりにとって休みの日とはなんなのかとか。でも質問者が意図しているのは、そういうことではなく、自分が自由に使える時間があるとしてその時に何をしているかという話なのだと、何人かの人が答える中でまとまってきた。でも、そうなるとさらにわからないことが出てきた。例えば自分で自由に使える時間があったとしたらディズニーランドに行きますと、答えるようなことなのだが、ディズニーランドに行くのは自由であっても、ディズニーランドは自由ではない。休みは自由に時間を過ごすことをいうのか、それとも何に使役するかを自由に選択できる日のことをいうのか。すべての人の答えは後者であった。では、休みの日は何かに使役することであって、それは休みなのだろうか?将来の不安からネット検索に使役するのも、気持ちを紛らわすためにゲームに使役するのも、何もやれることがなさそうでただ寝るのもそれは休んでいるのではない。何かが休みになっても、私たちが何からも自由になれる時間なんかはない。

 

だからこそ私は、ただ見させられているのではなく、見たい。ディズニーランドでミッキーマウスの笑顔や振る舞いを見させられているばかりでなく、その面をはがしてミッキーマウスの労働を知りたいのだし、ネットやテレビを見させられているばかりではなく、何らかを創作したい。見られることばかり意識して、うつむき加減でちらちら見るばかりでなく、見てくる人のことをじっと見返したい。それは交流なんかではなく、世界への信頼のようなものなのだろうが、ディズニーランドはそのような私の欲望の全てを取り上げられてしまう場所である。なら、行かなければいいのだが、ディズニーキャラクターが生活に紛れ込んでいるがごとく、そのような世界を拒み続けるのは至難の業だ。

高橋淳敏 2015年11月20日

2 Responses to “「ディズニーランドへ」 高橋淳敏”

  1. フック より:

    かなり天の邪鬼ね。私も負けてないくらい天の邪鬼ですがw。

    最近思うこと。
    自分より立派な行いをされてる人に感銘をうけるより、
    自分は出来たらしたくないなぁとおもう恥ずかしいことを正々堂々とする人。
    そのような人の行為から学ぶことが多いです。
    高橋さんのディズニーランドを観察する視点もそうじゃないのかなぁ。
    反面教師的な。

    • nskansai より:

      私にとってのディズニーランドは、反面教師とは少し違うと思います。
      不毛の地というか(獣なのに毛が生えていない!)。
      恥ずかしいよりも、見るべきところがないと思っています。
      高橋 淳敏

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