今年もスタッフ長井さんのご厚意で鍋の会へ差し入れするべくタケノコを掘りに行きました。暑い日だったのですが竹林は涼しく温度変化にも驚きました。いざタケノコを収穫しようと教えられた通り探すもかなり難しい。ようやく見つけたタケノコの頭を必死で掘るも土の中で根が張っていて最後まで掘れず。長井さんの手で大物は掘りだされました。他の人も一回は掘ったところで終了。急な斜面で踏ん張っていたので足腰にダメージがありながらもすぐドミトリーに帰り新鮮な内に下処理を済ませる。皮をむくと予想以上に身は小さくなり大量の皮の残骸が出ました。茹でる下処理は料理に安定感のある福神さんに頼み後日の鍋の会でみんなで食べました。新鮮なタケノコは下処理もうまくできていて市販のものとは一味違い美味しかったです。
定例会報告
4月16日(土)に9名参加(内御家族さん1組)でした。
大学に進学希望の若者が参加しており、一番の理由は就職だと話していました。今回参加された方は勉強したい事があり大学生活への楽しみも期待していましたが、卒業のためだけになると息苦しくなります。このNS定例会も始まりは大学生の不登校がテーマでした。不登校についても色々と考えていきたいですね。
父母懇談会報告
5月7日(土)に6名参加(内親御さん2組)でした。
どうしても子どもの事が心配になり親元から離れられないという話題がありました。親も自覚がありながらその関係が止められなくなっているようでした。親の心配は親の不安でもあるので同調した子供は自信を失くし同じく不安や不信も持つでしょう。「かわいい子には旅をさせろ」という事ですね。
『372回目の鍋』
4月24日。この日、鍋の会にタケノコがやって来ました。
市販の物ではなく、とある山からの贈り物として来たのです。これはもうタケノコ鍋をやるしかないでしょう!
調べてみると和風の白だしの鍋が合いそうでしたが、辛めのキムチ鍋でも合うのでは? という意見も出ました。
冬が終わっても辛い鍋は食べたくなるものなのでしょうか。
自分は辛い物が好きなので大賛成なのですが、たまたま集まった面子が辛いの平気というだけで、もしも嫌いな人がこの場にいたら違う物になっていただろうと思います。
人間にとって「食」は大切な習慣の一つなので、わざわざ嫌いな物を無理して食べる必要はないと思います。
美味しいと思った好きな物を好きなだけ食べて幸せな気分に浸る方が健康的にも良いでしょう。
・・・・・・と、これは昔好き嫌いが多かったが鍋の会で色々と食べていく内にそれがだいぶマシになったという筆者の体験に基づいた答えの一つです。
今の鍋の会には食べる喜び以外にも自ら作る楽しさがあるので、それをもっとたくさんの人たちに伝えていきたいと思っています。
話が別の方向へと行ってしまいましたが・・・・・・そんなこんなで今回作った鍋はタケノコキムチ鍋です。採れたてのタケノコと最近美味いと話題になったキムチ(鍋の会で)がとても良く合っていました。山に赴きタケノコを掘り出して来てくれた方々に感謝の気持ちでいっぱいです。また何か美味しい食材を採って来て下さいね(笑)。
『373回目の鍋』
5月8日。はい、ゴーヤの日です。スーパーで安くたくさん売られていました。
・・・・・・と、そこで何やら他の物まで目に映ってきました。なんと! 今日は母の日らしいですね!
・・・・・・どうやら親不孝者はこんな事も覚えていないようです。ニュースタートスタッフにして二児の母でもある久美子さん本人もわざわざ言っていたので間違いないですね。
そして彼女は何かに憑かれたようにすいとんを作りたいと何度も言っていたので、今日ばかりは逆らわないで合わせる事にしておきました。すいとんと言えば味噌汁のイメージがあったので、だしは和風テイストでいってもらう事に。
そして完成した和風すいとん鍋・・・・・・うん、これは完璧に味噌汁ですね!普通に美味しいんですけど、
鍋である必要は・・・・・・という声もチラホラと。
そこでリベンジに燃えた久美子さんが今度は改良を加えて(バターだったかな?)第二弾を出してきました。
これがすっごく美味しくて、久々に何杯もおかわりしてしまいました。
肝心のすいとんの方はやたら固かったですが、長く浸かって物は程よい固さになっててこれまた良かったです。
まだまだ母の味に勝てる気がしませんが、少しずつでも学んでいけたらなと思いました
今年もGWに高槻の街でジャズストリートが行われ見に行きました。参加した人から一言感想を集めましたのでどうぞ~。
お酒を飲みながら音楽を聞く機会は無いので良かったです。結構酔いました。栗岡大悟
日影に隠れながら聴いてた。ツボイ。
店は入れてよかったです。M
空きっ腹にお酒でフラフラになりながら少なすぎる喫煙場所を探すのは苦労しました。生演奏は迫力があって良かったです。自由人
いつも城跡公園で子どもたちを遊ばせながらステージでの演奏をBGMにして暑さと日差し戦っているような感じです。5月のイベントなのにこの時はいつも真夏のような暑さです。来年こそお酒飲もうかな。(く)
いのちは1番大切なものとして語られる。そうでない人はむしろ珍しいのではないだろうか。例えばお金とか尊厳だとかそのようなことと比べて。もちろん、そんなものとは比べられないのかもしれないし順番をつけないのもわかるが、いのちが一番に大切にされるのは、いのちがなければ何もできないからだろう。オールorナッシング0か100かならば、いのちあることは100で無限の可能性を持っていて、いのちがなければ0を意味するだろう。いのちがなければ何もできない。可能性も何もないとそのように。しかし、近年も人のいのちは軽く扱われている。戦争やテロなんかは日常化して、先週あったテロはすぐに風化し、命はもっぱら数や人種でしか測れないようである。死んだ人の喪に服す間もなく、1000人の命と1人の命を比較しては次から次へと1人の命を切り捨てるというようなことを、何処かで誰かが常に選択しているような感覚を私はもたされている。人の命とお金とを同じ秤にかけられて、結果として多くの人がお金を選択させられてしまう人質事件や、止めることのできない自殺。そんな日常に麻痺してしまって、ニュースを見るたび見ず知らずの人のいのちなんて大したことはないと思わされ、他人のいのちを意識すれば日常生活を送れなくさせられている。多くの人はいのちが大事だと分っていても、コントロールができそうな自分のいのちを守るくらいで、他人のいのちはそれに準じたものだとして大事だと考えているのようである。自分のいのちも大切にできないで、他人のいのちを大切にできるわけがないとか。自分のいのちは自分で守るしかないとか。自己責任だとか。でも、私はそれは違うんじゃないかと思っている。
引きこもりの話になると、特に親が「私の方が先に死ぬし、親が死んだらどうするのだ」と訴え、引きこもる子に実際にそのような言葉を投げかけることが多い。私はそのような報告を聞くたびに、引きこもっているあなたの子は生きる死ぬではなくて、どのように生きるかを引きこもって懸命に考えているのではないかと親に答える。その親の訴えに、子の返答があったのは「親が死んだら自分も死ぬ」である。「親が死んだらどうするのだ」という親の子の命に係る心配は、子にとっては脅しにしかなっておらず最悪の答えを引き出すことにしかなっていない。子は引きこもりながらも、この生を賭けられる何かがないかと考えているのに、親は子が生きながらえることしか考えられてはいない。親は自分が死んだ後も子が生きながらえてくれればよくて、そんな親との関係や自分の中で、子はこの世に受けた生を持て余し、抑圧したり内に爆発させたりしている。カフェコモンズにも来てくれたことのあるルポライターの杉山春さんが最近出した新書「家族幻想」(ひきこもりから問う)でうまく表現していると思ったので引用する。《現代の「ひきこもり」は、自分自身と向き合うこととは違う。既存の価値観を内面化し、自己点検を繰り返し、その内面化した価値観に合わない自分自身が社会に漏れ出すことを必死になって防いでいる。そうでなければ社会から居場所を失うと感じ、不安と恐怖を戦っている。だが、どのようにしても漏れ出す生身の自分を隠すことはできない》親が死んだ後の子の生活の心配は、引きこもり問題においては無用である。いかにして、既存の価値観に合わず漏れ出る現在の自分を他人に委ねられるかである。
自分のいのちは自分でコントロールできるかに思えて、自分ではコントロールできない。人には寿命があり、他人に傷つけられて寿命を縮める人もあれば、直接的にも間接的にも殺されることがある。自分のいのちをいくら大事にしても、ひとたび戦争が起こればどうなるか分かったものではないし、何にしても自分のいのちを大事にするだけの生き方なんて、いったい何のために生きているのかも分からない。自分のいのちも大切だろうが、私たちが生きていくうえでもっと大切なのは、例えば自分ではない人のいのちなのではないだろうか。だからこそ、私たちは喜び哀しみ怒り楽しみ、人生を豊かにしていくことができるのではないか。もちろん、それらも自分のいのちあってこそではあるが、自分のいのちを大切にできるのはそれも自分ではない誰かなのではないか。まさに親子はそのようではあるが、子どもにとって親は、自分のいのちを大切にしてくれる誰かであっても、自分のいのちよりも大切にできる誰かにはなりえない。それも親は先に死んでしまうわけで、その子のいのちを大切にし続けてくれる誰かにもなりえない。それで、一人でも生きていけるようにと親は子に仕事やお金の話しをするわけだが、本末転倒で一人で生きていけてはいけないのだ。その子を大切に思ってくれる誰かや、その子が大切にしたい誰かがいないと、それは生を粗末にすることに等しい。
引きこもる人よ、世間の価値観にあわず漏れ出る自分を持て余しているならば、自分ではない違う人のいのちのために外へ出てきてはみないか。引きこもっていたら分からないだろうが、私たちは多くの死者の上で生きているのだから。でも、生きていればいいこともあるよ。
2016,5,19 髙橋淳敏