NPO法人 ニュースタート事務局関西

「大切なのは自分のいのちではない」髙橋淳敏

By , 2016年5月22日 10:00 AM

いのちは1番大切なものとして語られる。そうでない人はむしろ珍しいのではないだろうか。例えばお金とか尊厳だとかそのようなことと比べて。もちろん、そんなものとは比べられないのかもしれないし順番をつけないのもわかるが、いのちが一番に大切にされるのは、いのちがなければ何もできないからだろう。オールorナッシング0か100かならば、いのちあることは100で無限の可能性を持っていて、いのちがなければ0を意味するだろう。いのちがなければ何もできない。可能性も何もないとそのように。しかし、近年も人のいのちは軽く扱われている。戦争やテロなんかは日常化して、先週あったテロはすぐに風化し、命はもっぱら数や人種でしか測れないようである。死んだ人の喪に服す間もなく、1000人の命と1人の命を比較しては次から次へと1人の命を切り捨てるというようなことを、何処かで誰かが常に選択しているような感覚を私はもたされている。人の命とお金とを同じ秤にかけられて、結果として多くの人がお金を選択させられてしまう人質事件や、止めることのできない自殺。そんな日常に麻痺してしまって、ニュースを見るたび見ず知らずの人のいのちなんて大したことはないと思わされ、他人のいのちを意識すれば日常生活を送れなくさせられている。多くの人はいのちが大事だと分っていても、コントロールができそうな自分のいのちを守るくらいで、他人のいのちはそれに準じたものだとして大事だと考えているのようである。自分のいのちも大切にできないで、他人のいのちを大切にできるわけがないとか。自分のいのちは自分で守るしかないとか。自己責任だとか。でも、私はそれは違うんじゃないかと思っている。

 

引きこもりの話になると、特に親が「私の方が先に死ぬし、親が死んだらどうするのだ」と訴え、引きこもる子に実際にそのような言葉を投げかけることが多い。私はそのような報告を聞くたびに、引きこもっているあなたの子は生きる死ぬではなくて、どのように生きるかを引きこもって懸命に考えているのではないかと親に答える。その親の訴えに、子の返答があったのは「親が死んだら自分も死ぬ」である。「親が死んだらどうするのだ」という親の子の命に係る心配は、子にとっては脅しにしかなっておらず最悪の答えを引き出すことにしかなっていない。子は引きこもりながらも、この生を賭けられる何かがないかと考えているのに、親は子が生きながらえることしか考えられてはいない。親は自分が死んだ後も子が生きながらえてくれればよくて、そんな親との関係や自分の中で、子はこの世に受けた生を持て余し、抑圧したり内に爆発させたりしている。カフェコモンズにも来てくれたことのあるルポライターの杉山春さんが最近出した新書「家族幻想」(ひきこもりから問う)でうまく表現していると思ったので引用する。《現代の「ひきこもり」は、自分自身と向き合うこととは違う。既存の価値観を内面化し、自己点検を繰り返し、その内面化した価値観に合わない自分自身が社会に漏れ出すことを必死になって防いでいる。そうでなければ社会から居場所を失うと感じ、不安と恐怖を戦っている。だが、どのようにしても漏れ出す生身の自分を隠すことはできない》親が死んだ後の子の生活の心配は、引きこもり問題においては無用である。いかにして、既存の価値観に合わず漏れ出る現在の自分を他人に委ねられるかである。

 

自分のいのちは自分でコントロールできるかに思えて、自分ではコントロールできない。人には寿命があり、他人に傷つけられて寿命を縮める人もあれば、直接的にも間接的にも殺されることがある。自分のいのちをいくら大事にしても、ひとたび戦争が起こればどうなるか分かったものではないし、何にしても自分のいのちを大事にするだけの生き方なんて、いったい何のために生きているのかも分からない。自分のいのちも大切だろうが、私たちが生きていくうえでもっと大切なのは、例えば自分ではない人のいのちなのではないだろうか。だからこそ、私たちは喜び哀しみ怒り楽しみ、人生を豊かにしていくことができるのではないか。もちろん、それらも自分のいのちあってこそではあるが、自分のいのちを大切にできるのはそれも自分ではない誰かなのではないか。まさに親子はそのようではあるが、子どもにとって親は、自分のいのちを大切にしてくれる誰かであっても、自分のいのちよりも大切にできる誰かにはなりえない。それも親は先に死んでしまうわけで、その子のいのちを大切にし続けてくれる誰かにもなりえない。それで、一人でも生きていけるようにと親は子に仕事やお金の話しをするわけだが、本末転倒で一人で生きていけてはいけないのだ。その子を大切に思ってくれる誰かや、その子が大切にしたい誰かがいないと、それは生を粗末にすることに等しい。

 

引きこもる人よ、世間の価値観にあわず漏れ出る自分を持て余しているならば、自分ではない違う人のいのちのために外へ出てきてはみないか。引きこもっていたら分からないだろうが、私たちは多くの死者の上で生きているのだから。でも、生きていればいいこともあるよ。

2016,5,19 髙橋淳敏

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