今日は1月最後の夕食会です。皆さん、心の中に思い浮かんでいても、声に出すにはとても勇気がいる言葉の一つに「餃子作ろう。」があるかと思いますが、その一言を簡単に言ってしまえるのが、ニュースタートのみんなの良いところなんです。私なら、やる前に(餃子なんて考えただけでも大変そう…。キャベツみじん切りにするのも、皮で包むのも大変で、そこまでうまくいったとしても最後の焼きでもし失敗したら、頑張って包んだ皮もやぶけ肉汁も失って、「ぐちゃっ」としか言い表せないような状態になって自己嫌悪の波に押されて…。)とぐるぐる考えて実行に移せずにいてしまうのですが、みんなは何の不安なことも想像せず「餃子にしようか(^^)」と言ってくれました。私も食いしん坊代表として、作ると決まれば腹をくくります。
さぁ買い物から帰ってくるとキャベツ、にら、にんにくのみじん切りを寮生のMくんと元寮生2人の、総勢3人がかりで取りかかってもらいます。横ではスープ担当と、中に入れる普通味以外の二種類(ハムコーンじゃがチーズ味と、ツナキムチ―ズ味)のあん作りが進みます。今回は全部で200個作る予定です。みじん切りはたっぷり30分以上かかりましたが、とっても細かくて美しいくらいだと感じました。寮生のMくんに、「こんなに真剣にキャベツと向き合ったのは初めてです」と言わせてしまったほど大変な作業でしたが、まだ餃子作りにおいては入口に過ぎません。全てのあんができてからついに包みの作業に入ります。きっと今まで世界中のたくさんの人が、餃子を包みながら仲間となんて事ない話をするという幸せな時間を過ごしてきたんだろうと思います。とは言え、現場ではそれどころではなくて、包み初めは終わりが全く見えず焦りますが、10人がかりでこれまた30分以上はかかりましたがなんとか包み終わりました!普通味の具がたくさん残ったので、うどん餃子(一応高槻のB級グルメです。残った餃子の具に細かく切ったうどんを混ぜて焼いた物です。)を作ってみようかと言う事になり急遽うどんも買いに(^^)あとは、焼くだけですがこれまた想像以上に時間がかかり、ホットプレートに無理やり並べた100個の餃子は焼き上がるまで結局30分かかりました。焼けたものをはがすのも難しく少し破けましたが、皮自体に肉汁がしみているので美味しいし全く気になりません(^^)v変わり種二品は中の具が生ではないので皮の表面が透明になったらもうOKです。どたばた7時を少し過ぎたくらいで完成したので、上出来です。途中何度か心が折れそうにもなりましたが、お腹空いた~早く食べたいねぇというみんなの言葉を胸に最後までがんばれました。お疲れ様でした!
定例会報告
1月21日(土)に8名参加(内御家族さん2組)でした。
会の終盤に親世代と若者世代の違いについて話題になりました。大学の話では今進学率はますます上がっているようですが大学を出ていない方も多く存在するのも確かです。その方達も充実した生活をしている方は多く存在しているはずです。何が将来の幸せに繋がるかは他にも色々な要素があるのではないでしょうか。
父母会報告
2月4日(土)に4名参加(内親御さん2組)でした。
今回は参加者も少なかった事もあり相談や報告ではなく勉強会的に進みました。会の半ば親子関係の話題になりました。引きこもり問題に悩む家庭に限らず千差万別で難しいと思いますが引きこもっている状況では同じ関係性を続けていても何も変わらないどころかますます解決が困難になる事が多いようです。
『390回目の鍋』
1月22日。冬の寒さから身を守る為に冬眠する動物達のように、人々もこたつで丸くなってみかんを食べる季節です。鍋の会ではみかんではなく鍋を作って、そして美味しく食べながら過ごします。
寒いのでからだが温まりそうな辛い系の鍋を食べたいという意見が多く、今回作るのはカレー鍋となりました。カレーはもちろんスープカレーよりもサラサラなカレー鍋ですが、ちゃんと「だし」から作れば旨みのある美味しい味になります。
水そのままから作る味噌汁よりもだしから作る味噌汁の方が断然美味いのと同じ原理ですが、普段まったく料理をしない人からすれば意外と知らない事だったりするのではないでしょうか。
ちなみに自分も料理をまったくしてなかった頃はまったく知らない事でした。
だし文化を作ってきた日本人と同じ血を引いているはずなのですが……摩訶不思議ですね。
鍋の会で鍋を一緒に作っていく内にこういう事も学ばされていたのだと改めて思いました。
『391回目の鍋』
2月12日。バレンタインデー、の二日前。今年もお菓子業界のイヤラシイ戦略が執行されようとしています。
何となく子供の頃から好きになれないイベントなんですが、周りの空気を見ていたら何も言えず黙っているありません。一度もチョコをもらった事がないからとかそういう単純な理由ではなく、それよりもむしろ1か月後にお返しをしなければならないというルールがあまり好きではないのです。3倍にして返さないといけないみたいな事も言われてますよね……これは女尊男卑でしょうか?……これ以上言っちゃうと世の女性達のバッシングを食らいかねないので大人しく鍋の会の報告をさせていただきます。
今回はチョコ鍋という冗談を払いのけつつ、鶏生姜の中華鍋を作りました。やはりまだ寒いので生姜でからだを温めようという思惑がありつつ、たまにはキムチやカレー等ではなくあっさり系も食べてみたいという要望があり決まりました。本当は鶏団子を入れたかったそうですが、たまたまなのかはたまた売り切れてたのか、手に入れる事が出来ずに断念。たっぷりと入った生姜がよく効いてて、からだが芯から温まりました。
温まりすぎてたくさんの汗が出ていた人もいましたが……まさかこの寒い時期に汗をかく人を見るとは珍しい事もあるものです。とても美味しい鍋を堪能して、自己紹介では過去にしでかした事をみんなに懺悔してもらったり(何の会?)、温まった部屋でぬくぬくのんびりと過ごさせていただきました。つぼい。
3月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
3月18日(土) 14時から (218回定例会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
親が子の言いなりになることがある。逆に、子が親の言いなりになっていたことも聞く。親が子の将来を案じ、進学校やいい大学いい会社に通わせたいがため、親自身の安心が得たいからもあってか、親が子に世間一般の欲望に従わせようとする。それが上手くいかず反省する親もいるが、従わせなんてしていないし子には好きなようにさせてきたと、自らの欲望が子に与えた影響を省みない親もいる。「欲望に従わさせる」とは難しい言い方かもしれないが、それは多くの場合、子に対しては禁忌することになっていく。「遊んでばかりではいけません」とか「人に迷惑をかけてはいけません」とか、何も言わず子がすることにただ不機嫌であったりなど。遊んでばかりいることや人に迷惑をかけることが、ただ良いこととも言えないが、親は「~しなさい」と言うより「~してはいけません」と言うことが多い。「~のために勉強しなさい」とか「人のためになりなさい」とかではなくて、どちらが良いともいえないが、そういう言い方をしない。時代や環境のせいでもあるが、「~してはいけません」では親の考えのようであってそうではないし、教育のようであってそうはならない。進学校に行くときなんかは、「ここの学校に行きなさい」と言うのではなく、「できるだけいい学校に行きなさい」と。訳せば「比較的悪いとされる学校に行ってはいけません」としか言っていない。にもかかわらず、それが教育のようになっている。比較的良い学校にいけば比較的よい教育がされるのだろうと。それは処世術であるかもしれないが、それを教育やコミュニケーションとは言わず、子を世間一般の欲望に従わせようとしていると言っている。
もちろんそういうことも必要であるし、仕方のないことかもしれないが、ただそれだけの親子関係であることがいかにも多い。それで、外の世間一般の欲望に合わなくなった子どもの身体が進級過程で支障をきたし、そのことで集団におれなくなった子がレールから外れる。そして、親や世間の価値を信用できなくなった子が報復するかのように、今度は親に対して自らの欲望のままに言いなりにさせようとする。親が世間一般の欲望に考えもなく乗っていたのならば、子のあふれだす憤懣を理解できず、発露された子の欲望を止めることができなければ成熟させることもない。それを回避しようとするだけでは、止めるだけの考えも出てこない。考えもなければ、それも世間一般の欲望の裏返しである精神病院や警察に任せるしかなく、薬や権力などの暴力による介入がなされる。親は、子どもが人とコミュニケーションできないとか、親子のコミュニケーションがとれないなど悩みは多いが、そもそも親は子に対して世間一般の欲望を擦りつけるだけで、それ以外のコミュニケーションをとったことがあるのか。あるならば、それが今後の親子のコミュニケーションのヒントなのでちゃんと思い返す必要がある。世間一般の欲望を越えて、いつかあるはずのコミュニケーションを取り戻そうとすればいい。思い出せないのなら、そんな縁はできるだけ早く切ってしまうのがいい。
コミュニケーションという言葉は、たぶん個と個の交流のことを言っている。個は、それ以上分けることができなく誰の言いなりにもならない単位のことを言うだろう。現代の社会とは、その個と個の交流ができる場である。それで思い通りにはならない他者との言いなりにはならない交流をコミュニケーションという。そのコミュニケーションを家族や親子関係で成立させるには、常にそれぞれが個であるため、社会に対して家族を開いておかなくてはならない。近隣地域や親戚や会社や友達などの他者を介して、家族を社会に開くわけだが、内にいる家族がその都度ごとに閉じている家の扉を他人のために開けに行くのは大変である。外にいる他者が家への扉を開け続けてくれるのでなければ、扉は開き続けることはなく、家族は個として在り続けることができない。個として在り続けるためには外にいる他者からの助けが常に必要なのだ。引きこもりは社会から孤立しているのではない。社会から孤立している家の内から出ないでいる。閉じられた家族の内では「個」としてのコミュニケーションはかなわない。世間一般から孤立することを恐れてはいけないが、引きこもりを「個」として扱うためには、コミュニケーションするには、外から扉を開き続けてくれる他人が必要だ。要するに、家族のことを気にかけてくれる、それも「個」である他者の存在が引きこもりの問題を解決するための条件になる。
私たちが相談や訪問活動などで家族に関わろうとするとき、引きこもっている本人が変わりたくないから受け入れたくないと言ってくることが多い。それは、従ってきた親を今は逆に従わせているのに、また元のように主従を逆転させたくない意味からか、今の引きこもっている環境を変えたくない意味のようであるが、その根本には今まで自らが経験し思ったこと、「個」である自分自身を変えたくないと考えていることが多い。私たちは「個」である自分自身を変えることはないと言っている。そして、家の扉を開けつづける。変わり続けなければならないのは家であり、社会のほうである。そしてそれらを変えるのは、一人の「個」の存在である。
2017,2,17 髙橋淳敏