「子が変わるとき」髙橋淳敏
親が子の言いなりになることがある。逆に、子が親の言いなりになっていたことも聞く。親が子の将来を案じ、進学校やいい大学いい会社に通わせたいがため、親自身の安心が得たいからもあってか、親が子に世間一般の欲望に従わせようとする。それが上手くいかず反省する親もいるが、従わせなんてしていないし子には好きなようにさせてきたと、自らの欲望が子に与えた影響を省みない親もいる。「欲望に従わさせる」とは難しい言い方かもしれないが、それは多くの場合、子に対しては禁忌することになっていく。「遊んでばかりではいけません」とか「人に迷惑をかけてはいけません」とか、何も言わず子がすることにただ不機嫌であったりなど。遊んでばかりいることや人に迷惑をかけることが、ただ良いこととも言えないが、親は「~しなさい」と言うより「~してはいけません」と言うことが多い。「~のために勉強しなさい」とか「人のためになりなさい」とかではなくて、どちらが良いともいえないが、そういう言い方をしない。時代や環境のせいでもあるが、「~してはいけません」では親の考えのようであってそうではないし、教育のようであってそうはならない。進学校に行くときなんかは、「ここの学校に行きなさい」と言うのではなく、「できるだけいい学校に行きなさい」と。訳せば「比較的悪いとされる学校に行ってはいけません」としか言っていない。にもかかわらず、それが教育のようになっている。比較的良い学校にいけば比較的よい教育がされるのだろうと。それは処世術であるかもしれないが、それを教育やコミュニケーションとは言わず、子を世間一般の欲望に従わせようとしていると言っている。
もちろんそういうことも必要であるし、仕方のないことかもしれないが、ただそれだけの親子関係であることがいかにも多い。それで、外の世間一般の欲望に合わなくなった子どもの身体が進級過程で支障をきたし、そのことで集団におれなくなった子がレールから外れる。そして、親や世間の価値を信用できなくなった子が報復するかのように、今度は親に対して自らの欲望のままに言いなりにさせようとする。親が世間一般の欲望に考えもなく乗っていたのならば、子のあふれだす憤懣を理解できず、発露された子の欲望を止めることができなければ成熟させることもない。それを回避しようとするだけでは、止めるだけの考えも出てこない。考えもなければ、それも世間一般の欲望の裏返しである精神病院や警察に任せるしかなく、薬や権力などの暴力による介入がなされる。親は、子どもが人とコミュニケーションできないとか、親子のコミュニケーションがとれないなど悩みは多いが、そもそも親は子に対して世間一般の欲望を擦りつけるだけで、それ以外のコミュニケーションをとったことがあるのか。あるならば、それが今後の親子のコミュニケーションのヒントなのでちゃんと思い返す必要がある。世間一般の欲望を越えて、いつかあるはずのコミュニケーションを取り戻そうとすればいい。思い出せないのなら、そんな縁はできるだけ早く切ってしまうのがいい。
コミュニケーションという言葉は、たぶん個と個の交流のことを言っている。個は、それ以上分けることができなく誰の言いなりにもならない単位のことを言うだろう。現代の社会とは、その個と個の交流ができる場である。それで思い通りにはならない他者との言いなりにはならない交流をコミュニケーションという。そのコミュニケーションを家族や親子関係で成立させるには、常にそれぞれが個であるため、社会に対して家族を開いておかなくてはならない。近隣地域や親戚や会社や友達などの他者を介して、家族を社会に開くわけだが、内にいる家族がその都度ごとに閉じている家の扉を他人のために開けに行くのは大変である。外にいる他者が家への扉を開け続けてくれるのでなければ、扉は開き続けることはなく、家族は個として在り続けることができない。個として在り続けるためには外にいる他者からの助けが常に必要なのだ。引きこもりは社会から孤立しているのではない。社会から孤立している家の内から出ないでいる。閉じられた家族の内では「個」としてのコミュニケーションはかなわない。世間一般から孤立することを恐れてはいけないが、引きこもりを「個」として扱うためには、コミュニケーションするには、外から扉を開き続けてくれる他人が必要だ。要するに、家族のことを気にかけてくれる、それも「個」である他者の存在が引きこもりの問題を解決するための条件になる。
私たちが相談や訪問活動などで家族に関わろうとするとき、引きこもっている本人が変わりたくないから受け入れたくないと言ってくることが多い。それは、従ってきた親を今は逆に従わせているのに、また元のように主従を逆転させたくない意味からか、今の引きこもっている環境を変えたくない意味のようであるが、その根本には今まで自らが経験し思ったこと、「個」である自分自身を変えたくないと考えていることが多い。私たちは「個」である自分自身を変えることはないと言っている。そして、家の扉を開けつづける。変わり続けなければならないのは家であり、社会のほうである。そしてそれらを変えるのは、一人の「個」の存在である。
2017,2,17 髙橋淳敏