今日は鍋の会
今日はこれから鍋の会です。
暖かくなるのはいいですが、鍋にとっては苦しい季節になってきました。
さて、今日何鍋になるのでしょうか。自治会にも出席する予定。
来週の日曜日は花見に行きます。久しぶりの野外での開催で楽しみです。
鍋じゃなくて、バーベキュー的なものになるかな。
先週の金曜日は甲子園に何人かで行ってきました。開幕日でしたが、第二試合を最初っから最後まで観戦して楽しかった。英明VS国学院栃木、英明側の外野席にいたけども負けてしまったけど。
今日はこれから鍋の会です。
暖かくなるのはいいですが、鍋にとっては苦しい季節になってきました。
さて、今日何鍋になるのでしょうか。自治会にも出席する予定。
来週の日曜日は花見に行きます。久しぶりの野外での開催で楽しみです。
鍋じゃなくて、バーベキュー的なものになるかな。
先週の金曜日は甲子園に何人かで行ってきました。開幕日でしたが、第二試合を最初っから最後まで観戦して楽しかった。英明VS国学院栃木、英明側の外野席にいたけども負けてしまったけど。
前回は11月に行った選手権ですが、今回は味をとんこつ味に変えて、人数も増えて5人で開催しました。近くのスーパーに買出しに行き、あるだけ買いこんで8種類。5人で8種類ならおいしく味わえるだろうとわいわい楽しみに帰ってきました。Myおわんに少しずつ全部の種類を食べて行きます。「あぁ!とんこつ味はきつい!」食べる前に気付けそうな話ですが、だいぶ食べ進めた後に気づきました。どのメーカーも濃厚をうたっている中でさっぱりした味がおいしく感じ始める私です。5人とも一番好きな味はバラバラでした。みんな真剣に審査していて面白かったです。(く)
2月23日(金)高槻市第四中校の生徒達とコモンズで交流を行いました。先月号で少し取り上げましたが「地域で一人ぼっちになってしまっている人に虹をかけるプロジェクト」の企画です。写真にもある通り生徒達が考えた企画で交流します。ニュースタート組は準備から手伝った寮生とコモンズに居合わせた鍋隊長でもある坪井君と高槻マラソンの応援もしてくれた女性や鍋の会にも参加した若者が集まりました。NHK取材班も到着して開始時間も近づきコモンズに続々と生徒達が到着。しかし…「××君がいない!途中ではぐれた!」と早々からトラブル発生。「最後に見たのいつや」とか飛び交う中数人で外へ探しに行き無事合流して男女合わせて18名の生徒+先生が揃いました。開始は遅れましたが生徒の挨拶から始まり全員の自己紹介も早々に「レインボーピザ作り」から開始。2グループに別れそれぞれ大人達も均等に混じり事前に準備しておいた生地や具材を一緒にのせます。僕が入ったグループでは生徒達にお手本を見せつつ交代して「もっと豪快にやっていいよ」とか「素手でやっていいよ」とか遠慮がちな生徒にイケイケな大人がアドバイスをするような感じで進みました。うまくトッピングできてグループ内で小さな拍手も。窯でピザを焼いてる時間にボンドで文字を貼る「看板作り」も行いました。その後焼き上がったピザをコモンズにいる全員で食べました。生徒から「うまい!」も連発。余ったピザ争奪のジャンケン大会も盛り上がりました。プログラム通り次は「スマイルすごろく」です。また2グループに分けて開始。開始が遅れている事もあって時間制限で盛り上がったので延長もしましたがゴールできずに終了。中学生とにらめっこしたり変顔したりは大変でしたがこの頃には生徒達の緊張もほぐれて距離も少し縮まった感じがしました。最後のプログラムは「質問BOX」です。生徒達が作った手作りの箱から質問が書かれた紙をくじ引きの様に引き答えていく企画です。どんな質問があるのか知らない大人達の方が緊張していましたが「犬派か猫派か?」や「好きな芸人は?」などかなり配慮された質問でちょっと安心した反面ここぞとばかりに難しい大人の見解も覚悟していた僕は少し肩透かしを食らった感じになりましたが生徒達の流行りや夢なども聞けて貴重な体験でした。最後に参加者一人ずつ感想。とても良い交流になったと良い感想がもらえました。僕的にすごく楽しめましたし中学生と交流する機会は日常ではほぼ無いので貴重な体験でした。若いエネルギーに圧倒され疲れましたという寮生の感想もありましたが、近所で暮らす仲間でもあるので出会い交流できたのは嬉しく感じましたしこれからも一緒に取り組んでいければと思います。自由人
『416回目の鍋』
2月25日。冬の終わりも近づいてきたこの頃、今回も「辛い鍋」を所望する声があったので「カレー鍋」を作る事に。
普通のカレーとスープカレーの違いはわかるとしても、そこにカレー鍋が入ると途端にややこしくなります。
自分のイメージとしてはカレーよりはさらさらで、スープカレーほどさらさらではなく、若干とろみのあるカレースープ(鍋)といったところでしょうか。
そしていつもはカレー鍋のベースに使っているカレールウを一切使わずに作ろうという試みが行われました。ずっと開封されずに眠っていたインドの謎のスパイスがようやく日の目を浴びる事に。パッケージをよく見ると「サブジ」と書かれており、これはインドにおける「野菜の蒸し煮」や「炒め煮」の事を指します。
要するにインドではよく使われているであろうスパイスという事でしょうね。
仕上がったカレー鍋の味もほとんどそのサブジのスパイスの味になってて、さながらインド風の野菜鍋。とても美味しく(辛さはそこそこ?)いただく事が出来ました。
『417回目の鍋』
3月11日。東日本大震災から7年が経ちました。
この日のヤフー検索で「3.11」と検索すると10円の募金になる、というような事が行われていたのを知り、復興というものの大変さを知りました。
「もう7年」という感覚と「まだ7年」という感覚の違いが自分の中ではあったのだと思います。
さて、この日はそこそこ暖かくなってきていて、そろそろ寒い日に食べる鍋は今日が潮時かなという話をしていました。
とはいえ前回前々回と辛い物ばかりやってきたので、そろそろ別のタイプのものを作って食べてみたいという願望も。
味噌ベースにしよう、味噌汁っぽくならないようにバターも入れてみよう、普段はあまり入れてないからシャケを入れてみよう、じゃがいもやネギが欲しい、みんなのそれぞれの意見をまとめてみた結果、これって「石狩鍋」なのかな?
鍋の会ではやらないタイプで自分自身もあまり食べた事のある記憶はないのですが、スマホで石狩鍋を調べてみたら確かにそれっぽい鍋の写真が検索されました。
面白いからこれをやろうと決まりました。味噌バターの風味が
効いていて、ゴロゴロとシャケやじゃがいもが顔を覗かせる、
ここに来て新しい鍋が発見出来た気がします(自分だけかな?)。
今回もとても美味しいお鍋をいただけました。つぼい。
井上陽水に「傘がない」という歌があり、歌いだしは社会問題を取り上げるところから始まる。詩の一部意訳ではあるが「都会で自殺する若者が増えている報道がされているが、僕にとっては君に会いに行くことの方が大事であって、外は冷たい雨が降っていて会いに行くための傘がないことが問題だ」と歌われている。通しで聴いても、結局会ったのかも分からなければ、会いに傘がないまま外へ出たかも定かではない。近くの社会問題に対する無力感からか、個人的な衝動に駆られてもいるのだけど、傘一つで躊躇してしまう意思の無さをもって、思い馳せることしかできないといった感じである。君のことしか考えられない「それはいいことだろ?」と最後は疑問形で君に対して訴えているのか、世間に許しを請うているのか。一見すると快楽的で個人主義の成れの果てのような詩として読めるのだが、そこには身近な社会に対して無能力である人がいて、弱弱しいながらも思い馳せることを、謳ってもいるのである。傘もなければ、思い馳せる。私たちにできることはそれくらいだろう?
ところで、先月にあった鍋の会でフランスから来た人が「日本には社会がない」といった発言をした。すぐにその意味は分からなかったが、日本の社会での生きづらい「世間」(公園でゆっくりひなたぼっこするのもやりにくいとか)について何人かで話しになっていたときで、最近日本に住み始めたフランスの彼は「旅行に来たときはたいがいのことは大目に見られているが、日本に外国人として住み始めるとよくわからないルールが多すぎる」と後で説明をしてくれた。想像するに、フランスの社会は良いか悪いかまま在って、社会でやっていいこととやってはいけないことなんかが明文化されているが、日本の場合は社会より前に「世間のまなざし」のようなものがあって、やっていいこととやってはいけないことなんかが明確にはされていないといった話しだったと思う。「他人に迷惑をかけてはいけない」とか、「病気でもなければ働いていなくてはいけない」とか「天皇制について論じてはいけない」とか「年長者は敬わなければならない」とか「人よりも車の方が強い」とか挙げればきりがないが、私たちが「社会」だと思っている暗黙のルールは、フランスの人から見ると一体社会なのかどうなのかも分からない。それで「世間」という言葉を日本で発見したとのことだった。
考えるに「社会人」なんて言葉は変な言葉であった。世間的には、企業に雇用されて働いて収入がある人のことなんかを「社会人」といっているが、そういう人以外は社会から除外するような言い方で、家の仕事をしている主婦や、失業をして休んでいる人なんかは社会の構成員ではないといったニュアンスが「社会人」という言葉にはある。それだのに「世間」は都合のいい時だけ「あなたも社会人なのだから」といって、駅のホームなんかで世間のルールを守らせようとする。一方で、家の中では法律を侵すような人権侵害や暴力や虐待などが許されていて、日本の殺人事件の半数以上は家族内で起こっているわけだが、そのようなことはほとんど問題にされない。「社会人」は差別用語であっておかしな言葉だが、引きこもっていたって、法律を犯せば罰せられるわけで「社会人」なのである。社会的引きこもりなんて言い方をしていたが、「世間的引きこもらされ」と呼び名を変えてはどうかと考える。
私が子どもだった頃、「世間」や「世間のまなざし」を理不尽に思うことが多かったが、その裏にちゃんとした「社会」があるものだと思っていた。「歴史」や「文化」の知恵みたいなのがあって、それによって明文化できるような「社会」が出現していて、それはなかなか複雑なものではあるが、大人たちが従わせようとしている「世間」にはその「社会」の裏付けがあるはずだと考えていた。「社会人」という言葉からもあるのだろう「社会」というものを連想していた。だが、そんなものはなかったのだ。今に始まったことではないが、国会で誰の得にもならないようなおかしな法律が大した審議もなされず成立し、偽装されるばかりで、それを怒るどころかなだめようとしている「世間」をみていると、この社会は大したコミュニケーションもできずに、ここまで来てしまったのだなあと愕然とする。子どものころに見ていた「大人」や「社会人」は、デモクラシー以前の「世間人」だったのだと今は納得している。社会はない。もしくは偽装されてきたようだと。
むろんフランス社会が良いというのではないが、少なくとも引きこもり問題においては日本の世間は見直されるべきではあるし、新たに一からでも社会を作っていかなくてはならないし、多くの課題が積みあがっている。世間に生かされていない方が大部分である。それにしたらまず私たちができることは、自分ではない誰かがどこかで生きていて、死んでしまっているかもしれないことを、弱弱しくも思い馳せることしかないのだろう。それはもちろん良いことであるし、そこからしか始まらない。でも社会はないが、傘はあるだろう?
2018,3,15 髙橋淳敏
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