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「社会がない」髙橋淳敏

By , 2018年3月19日 11:55 AM

井上陽水に「傘がない」という歌があり、歌いだしは社会問題を取り上げるところから始まる。詩の一部意訳ではあるが「都会で自殺する若者が増えている報道がされているが、僕にとっては君に会いに行くことの方が大事であって、外は冷たい雨が降っていて会いに行くための傘がないことが問題だ」と歌われている。通しで聴いても、結局会ったのかも分からなければ、会いに傘がないまま外へ出たかも定かではない。近くの社会問題に対する無力感からか、個人的な衝動に駆られてもいるのだけど、傘一つで躊躇してしまう意思の無さをもって、思い馳せることしかできないといった感じである。君のことしか考えられない「それはいいことだろ?」と最後は疑問形で君に対して訴えているのか、世間に許しを請うているのか。一見すると快楽的で個人主義の成れの果てのような詩として読めるのだが、そこには身近な社会に対して無能力である人がいて、弱弱しいながらも思い馳せることを、謳ってもいるのである。傘もなければ、思い馳せる。私たちにできることはそれくらいだろう?

 

ところで、先月にあった鍋の会でフランスから来た人が「日本には社会がない」といった発言をした。すぐにその意味は分からなかったが、日本の社会での生きづらい「世間」(公園でゆっくりひなたぼっこするのもやりにくいとか)について何人かで話しになっていたときで、最近日本に住み始めたフランスの彼は「旅行に来たときはたいがいのことは大目に見られているが、日本に外国人として住み始めるとよくわからないルールが多すぎる」と後で説明をしてくれた。想像するに、フランスの社会は良いか悪いかまま在って、社会でやっていいこととやってはいけないことなんかが明文化されているが、日本の場合は社会より前に「世間のまなざし」のようなものがあって、やっていいこととやってはいけないことなんかが明確にはされていないといった話しだったと思う。「他人に迷惑をかけてはいけない」とか、「病気でもなければ働いていなくてはいけない」とか「天皇制について論じてはいけない」とか「年長者は敬わなければならない」とか「人よりも車の方が強い」とか挙げればきりがないが、私たちが「社会」だと思っている暗黙のルールは、フランスの人から見ると一体社会なのかどうなのかも分からない。それで「世間」という言葉を日本で発見したとのことだった。

 

考えるに「社会人」なんて言葉は変な言葉であった。世間的には、企業に雇用されて働いて収入がある人のことなんかを「社会人」といっているが、そういう人以外は社会から除外するような言い方で、家の仕事をしている主婦や、失業をして休んでいる人なんかは社会の構成員ではないといったニュアンスが「社会人」という言葉にはある。それだのに「世間」は都合のいい時だけ「あなたも社会人なのだから」といって、駅のホームなんかで世間のルールを守らせようとする。一方で、家の中では法律を侵すような人権侵害や暴力や虐待などが許されていて、日本の殺人事件の半数以上は家族内で起こっているわけだが、そのようなことはほとんど問題にされない。「社会人」は差別用語であっておかしな言葉だが、引きこもっていたって、法律を犯せば罰せられるわけで「社会人」なのである。社会的引きこもりなんて言い方をしていたが、「世間的引きこもらされ」と呼び名を変えてはどうかと考える。

 

私が子どもだった頃、「世間」や「世間のまなざし」を理不尽に思うことが多かったが、その裏にちゃんとした「社会」があるものだと思っていた。「歴史」や「文化」の知恵みたいなのがあって、それによって明文化できるような「社会」が出現していて、それはなかなか複雑なものではあるが、大人たちが従わせようとしている「世間」にはその「社会」の裏付けがあるはずだと考えていた。「社会人」という言葉からもあるのだろう「社会」というものを連想していた。だが、そんなものはなかったのだ。今に始まったことではないが、国会で誰の得にもならないようなおかしな法律が大した審議もなされず成立し、偽装されるばかりで、それを怒るどころかなだめようとしている「世間」をみていると、この社会は大したコミュニケーションもできずに、ここまで来てしまったのだなあと愕然とする。子どものころに見ていた「大人」や「社会人」は、デモクラシー以前の「世間人」だったのだと今は納得している。社会はない。もしくは偽装されてきたようだと。

 

むろんフランス社会が良いというのではないが、少なくとも引きこもり問題においては日本の世間は見直されるべきではあるし、新たに一からでも社会を作っていかなくてはならないし、多くの課題が積みあがっている。世間に生かされていない方が大部分である。それにしたらまず私たちができることは、自分ではない誰かがどこかで生きていて、死んでしまっているかもしれないことを、弱弱しくも思い馳せることしかないのだろう。それはもちろん良いことであるし、そこからしか始まらない。でも社会はないが、傘はあるだろう?

2018,3,15 髙橋淳敏

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