NPO法人 ニュースタート事務局関西

定例会&父母会一言報告コーナー4,5月

By , 2018年5月21日 9:09 AM

定例会報告

4月21日(土)に9名参加(内御家族さん3組)でした。
今回は親御さんも若者も参加され色々な角度から話し合いができました。その中でフランスから留学している学生さんの話は興味深く、文化や感覚の違いなど日本で感じた事を話してくれました。普段は日本独特の風潮にとらわれていて見落としがちかもしれませんが外国の文化に何かのヒントがあるかもしれませんね。

 

父母会報告

5月12日(土)に8名参加(内親御さん4組)でした。
今回は初めて参加される親御さんもおられました。以前はお母さんの参加が多かったように思うのですが最近はお父さんの参加も多く家族で問題に取り組んでいる事がよくわかる様になりました。引きこもりから脱出するには家族の影響も大きく関わります。みんなで協力して一緒に取り組んでいきましょう。

○悪戦苦闘の竹の子掘り

By , 2018年5月20日 10:00 AM

富田から京都方面に2駅の島本町で竹の子掘りに行きました。コモンズの長井さんの紹介でハーフマラソンや花見の時などニュースタートの行事にもちょいちょい登場します。よるべに集合だったのですがGW真っ只中だったので集まるかなぁと心配でしたが寮生一人がなんとか駆けつけ島本駅で長井さんと待ち合わせ時間もあるからと軍手だけ携え出発。島本駅で長井さんと合流してそこから車で10分程の山のふもと。長井さん所有の区画の竹やぶに入り土からわずかに出ている竹の子を捜索。事前に聞いていたのですが今年はかなりの不作でなかなか見つかりません。三人で必死に探しましたが小一時間も経つと足腰がフラフラに…。死神が持つような大きな鎌を持ち、かなり急な斜面で落ち葉(笹)で滑りやすく踏ん張りもきかず転倒して成すすべなく滑り落ちる事も。なかなか厳しい条件で例年はもっと見つけれるのですが収穫無しでも仕方ない中小さめのを三つ掘りお土産にできました。長井さんに車で富田まで送ってもらいよるべに帰って皮を剥くとさらに小さくなりみんなで食べれるかと二人で心配してました。その日は茹でて保存しました。GW明けてすぐに夕食担当の人が炊き込みご飯に料理してくれてました。とても美味しくできあがっていたそうです。自由人

6月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2018年5月20日 10:00 AM

6月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

6月16日(土) 14時から (233回定例会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】

○大阪大学いちょう祭りに行ってみました。

By , 2018年5月20日 10:00 AM

5月1日(火)この日は、フランス語講座をしてくれているフランスからの留学生のトマさんが通う大阪大学のいちょう祭りに行きました。トマさんが案内してくれるという事で、吹田キャンパスのバス停で待ち合わせして初めて入る阪大の中を見てきました。吹田キャンパスは大学敷地内を何駅にも分けてバスが停車するほど大き過ぎて、お祭り自体も各研究室で展示があったりするくらいでとても静かでした。トマさんが通っている豊中キャンパスの方がお祭りらしいということで、吹田キャンパスでは一教室だけのぞいて、後はバスで移動して豊中キャンパスに行きました。こちらはザ・学園祭という感じで、テントやステージがいくつもあって若者がたくさんいました。トマさんたち留学生の人がやっているお店や、各部活の出し物などを見ながら最後にマジック喫茶に行きました。天井の高い大きな部屋で壁は黒い布で覆われた空間に三つくらいテーブルがあって、マジックをしてくれる学生が壁を背にして立っているという中、一つのテーブルに横に4人並んで座りました。暑かったのでみんなコーラを注文して目の前にいる学生の人がトランプのマジックをしてくれるのを見ていました。すぐ目の前でやっているので、種を見破れるんじゃないかと思いましたが、わかりそうでわからなくて、おもしろかったです。暑い日に、ひんやりとした暗い部屋の中でコーラとマジックはなんとも素敵な時間でした。トマさん案内ありがとうございました。

2018/ 5/ 1 15:56

「社会モデルの構築に向けて 0」髙橋淳敏

By , 2018年5月20日 10:00 AM

(以下の文章は、「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」の場である2018年5月17日「火曜会」で議論する際に、提出したものの前半部分になる)

 

 疲れが身体的であり、精神にも関連していると考える。疲れを、自らが身体を動かすことによって生じる場合と、働かされ動かされることによって自らの身体を保持したり均衡を保たなければならない時に生じる場合とに分けてみる。具体的には、自らの足で歩いて移動する疲労と、電車に乗って移動することによる疲労を想像することになる。自分の足で歩く疲れでも、行きたいところに向かうのか、気が向かないところに行くのかで疲労感が違うとも考えてみる。

 

 私が家の改築工事をした際に、インパクトドライバーという電動工具を使用した。木材などを固定する際に、ビスといわれる先が尖がったねじを高回転で穴を開けながら留め、素材同士を接着する目的だった。ハンドドライバーを使ってねじで固定したり、金槌によって釘を打つようなところに、このインパクトドライバーを使ったビス作業をした。作業時間が短縮され労力も減るようで、使い初めは随分と楽になった気がしたが、このインパクトドライバー使用による特有の疲れがあるのだった。高速回転する重量もある電動工具に力を加えながら固定し続けるためには、金槌で釘を打つのとは違う腕の使い方というか、身体の酷使がある。その酷使による疲労は、金槌を叩くなどの行為によって現れる筋肉痛とは違い、限界を超えたときに突如として、筋や腱を痛めるような形で身体の機能不全として現れるのだった。長時間乗り物に揺られ、乗っている時は意識しにくいが、乗り物から降りたときに感じられる疲労感に似ているかもしれない。私たちは何らかの動きに対して身を保たんとするための労力やそれによる疲れを、意識していないところで日々感じてもいるように思う。工場の流れ作業から、電子機器の使用、移動、機器に依存しなければならない環境における人間関係、マニュアル化された接客、被介護者の疲労、距離のある通信など。実際の仕事以外にも生活全般に渡り、近代から現代にかけて際限なく、欲望のためには仕方のないこととして、その他律的な運動を自らの身体が受け止めている。

 

 引きこもっている人はサボタージュしているなどの一般的な見方があり、生産性を下げようと意識するのでもなければ、引きこもりの状態を維持し続けることによる疲労についてはあまり考えられていない。当の本人が引きこもることによる疲れを考えていないこともあるし、考えられたところで同じように?疲れるのであればもっと生産的に外へ出ていけばよいとされてしまう。『「ひきこもり」だった僕から』を書いた¹上山和樹は「引きこもっている時はずっとオンの状態である」と語った。仕事がない時間をオフというのに習って、引きこもりっている状態は仕事をしないで家にいるわけで、ずっとオフの状態だと思われがちだったところに、上山の引きこもりはオン状態という発言は、引きこもりの状態を表す異議申し立てになったのだった。想像するに、不安や焦燥感が解消もされず身に降りかかり続け、一人で部屋の中で緊張状態にあって、疲労し続けているのである。ネットやゲーム、寝続けるなどの部屋の中での行為は、そのように疲労している常態からの回避手段なのかもしれない。引きこもる行為は疲れるのだった。であるのならば、それを自らの行為によって疲れを違うものに転換すれば良いと考えるのには飛躍がある。それは、電動工具を使うところに、ならば金槌でやればよいということであり、そのような行為を許るさない学校や職場、家族との生活、今の社会の成り立ちが考慮されていない。

 

  登校拒否をした²常野雄次郎は学校に行けなくなったのが、いじめや教師との確執でもなく、きっかけもなくある日突然に行けなくなったと語っている。小学校低学年の時はリズムよく軍隊行進できることで、他の生徒のお手本として教師から持ち上げられた常野が、ある日学校に行けなかったことを境に、登校できなくなったのには違う理由があった。学校に行けなかった悪い自分が、学校で他の人に合わせる顔がなかったと振り返えっている。学校に行かなくてはならないという社会規範が内面化され、学校に過剰適応したことが不登校に至った。車酔いをしている人が車酔いは悪いことだからと車を降りてからも頑張ろうとしたわけで、周りも車酔いは悪いことだから頑張れと言うしかなかったのである。それでも常野は、その後も学校に行かなかったことは良いことではないと主張した。常野は登校拒否後フリースクールに通い、しばらくして留学し高学歴者でもあったわけだが、今の社会で学校に馴染めなかったことが、どれほど生きづらいことであったかの実体験があった。そのところから学校を解体しなければ登校拒否は救われないと訴えていた。一方で彼は不登校やフリースクールを美化する言論を批判した。「5000億年後かもしれないけど、学校のない社会を目指す。社会のそのもののあり方を根本的に変えていくことを目指す。」と主張した。

 

 引きこもりは選ばされるものであるがその自覚が困難である。一つは、その定義によるもので家族以外の他者との関わりがないので、引きこもる状況に出会う他者もなければ、問題とするのはほとんど場合が家族であって、引きこもりというアイデンティティは確立しない。社会が支援を考えるのは、そのほとんどが引きこもりであった出てきた人に対するものである。一つは、自己責任的な社会規範が内面化されているが、そこにも他者がいないので周囲からは消極的にも選んだものとされてしまう。人や社会に対する不信感でもって、人と関わる必要がなければ本人にとっても自己責任的に考えるのは都合のいい事がある。だが、引きこもりは選べるものではない。哲学的問いや芸術的な創造などの孤独として、引きこもりの状態や経験を美化はできない。引きこもっている時の疲労感を、自らが選んだものとして自律的に身体を引きこもらせる方へ駆動させ、その疲労を転換するのは至難の業である。だが、そうでもなければ引きこもりは、過剰適応した末に、他者を排除する状態にもなれる。それでは運動にはならない。こういったことは引きこもりに限った話しではないが、周りから隠蔽され引きこもっているのは良くはない状態である。この長期化している疲労からの救済はされなくてはならないが、必要なのは社会復帰することや、再び車や電車に乗らせるような支援を受けることではない。支援に足場はないのだ。外に出て生活している他者も、自らの身体を保持するための疲れをひどく抱え、抗うこともままならない状態にある。ほとんどすべての人が、この引きこもる疲れを共感すること以外には何もできないのではないか。

¹ 上山和樹(1968-)『「ひきこもり」だった僕から』講談社2001年 彼の仕事はブログFreezingPoint(http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/)に詳しくある。

²常野雄次郎(1977-2018)『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』イースト・プレス2005年 彼は不登校ではなく自分が経験したのは登校拒否だと語っている。今回の発言は全国不登校新聞社による「不登校50年証言プロジェクト」による彼に対するインタービューからの抜粋(http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html)

2018年5月17日 髙橋淳敏

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