NPO法人 ニュースタート事務局関西

「社会モデルの構築に向けて 0」髙橋淳敏

By , 2018年5月20日 10:00 AM

(以下の文章は、「アジア比較社会論」「現代アジア特殊研究」の場である2018年5月17日「火曜会」で議論する際に、提出したものの前半部分になる)

 

 疲れが身体的であり、精神にも関連していると考える。疲れを、自らが身体を動かすことによって生じる場合と、働かされ動かされることによって自らの身体を保持したり均衡を保たなければならない時に生じる場合とに分けてみる。具体的には、自らの足で歩いて移動する疲労と、電車に乗って移動することによる疲労を想像することになる。自分の足で歩く疲れでも、行きたいところに向かうのか、気が向かないところに行くのかで疲労感が違うとも考えてみる。

 

 私が家の改築工事をした際に、インパクトドライバーという電動工具を使用した。木材などを固定する際に、ビスといわれる先が尖がったねじを高回転で穴を開けながら留め、素材同士を接着する目的だった。ハンドドライバーを使ってねじで固定したり、金槌によって釘を打つようなところに、このインパクトドライバーを使ったビス作業をした。作業時間が短縮され労力も減るようで、使い初めは随分と楽になった気がしたが、このインパクトドライバー使用による特有の疲れがあるのだった。高速回転する重量もある電動工具に力を加えながら固定し続けるためには、金槌で釘を打つのとは違う腕の使い方というか、身体の酷使がある。その酷使による疲労は、金槌を叩くなどの行為によって現れる筋肉痛とは違い、限界を超えたときに突如として、筋や腱を痛めるような形で身体の機能不全として現れるのだった。長時間乗り物に揺られ、乗っている時は意識しにくいが、乗り物から降りたときに感じられる疲労感に似ているかもしれない。私たちは何らかの動きに対して身を保たんとするための労力やそれによる疲れを、意識していないところで日々感じてもいるように思う。工場の流れ作業から、電子機器の使用、移動、機器に依存しなければならない環境における人間関係、マニュアル化された接客、被介護者の疲労、距離のある通信など。実際の仕事以外にも生活全般に渡り、近代から現代にかけて際限なく、欲望のためには仕方のないこととして、その他律的な運動を自らの身体が受け止めている。

 

 引きこもっている人はサボタージュしているなどの一般的な見方があり、生産性を下げようと意識するのでもなければ、引きこもりの状態を維持し続けることによる疲労についてはあまり考えられていない。当の本人が引きこもることによる疲れを考えていないこともあるし、考えられたところで同じように?疲れるのであればもっと生産的に外へ出ていけばよいとされてしまう。『「ひきこもり」だった僕から』を書いた¹上山和樹は「引きこもっている時はずっとオンの状態である」と語った。仕事がない時間をオフというのに習って、引きこもりっている状態は仕事をしないで家にいるわけで、ずっとオフの状態だと思われがちだったところに、上山の引きこもりはオン状態という発言は、引きこもりの状態を表す異議申し立てになったのだった。想像するに、不安や焦燥感が解消もされず身に降りかかり続け、一人で部屋の中で緊張状態にあって、疲労し続けているのである。ネットやゲーム、寝続けるなどの部屋の中での行為は、そのように疲労している常態からの回避手段なのかもしれない。引きこもる行為は疲れるのだった。であるのならば、それを自らの行為によって疲れを違うものに転換すれば良いと考えるのには飛躍がある。それは、電動工具を使うところに、ならば金槌でやればよいということであり、そのような行為を許るさない学校や職場、家族との生活、今の社会の成り立ちが考慮されていない。

 

  登校拒否をした²常野雄次郎は学校に行けなくなったのが、いじめや教師との確執でもなく、きっかけもなくある日突然に行けなくなったと語っている。小学校低学年の時はリズムよく軍隊行進できることで、他の生徒のお手本として教師から持ち上げられた常野が、ある日学校に行けなかったことを境に、登校できなくなったのには違う理由があった。学校に行けなかった悪い自分が、学校で他の人に合わせる顔がなかったと振り返えっている。学校に行かなくてはならないという社会規範が内面化され、学校に過剰適応したことが不登校に至った。車酔いをしている人が車酔いは悪いことだからと車を降りてからも頑張ろうとしたわけで、周りも車酔いは悪いことだから頑張れと言うしかなかったのである。それでも常野は、その後も学校に行かなかったことは良いことではないと主張した。常野は登校拒否後フリースクールに通い、しばらくして留学し高学歴者でもあったわけだが、今の社会で学校に馴染めなかったことが、どれほど生きづらいことであったかの実体験があった。そのところから学校を解体しなければ登校拒否は救われないと訴えていた。一方で彼は不登校やフリースクールを美化する言論を批判した。「5000億年後かもしれないけど、学校のない社会を目指す。社会のそのもののあり方を根本的に変えていくことを目指す。」と主張した。

 

 引きこもりは選ばされるものであるがその自覚が困難である。一つは、その定義によるもので家族以外の他者との関わりがないので、引きこもる状況に出会う他者もなければ、問題とするのはほとんど場合が家族であって、引きこもりというアイデンティティは確立しない。社会が支援を考えるのは、そのほとんどが引きこもりであった出てきた人に対するものである。一つは、自己責任的な社会規範が内面化されているが、そこにも他者がいないので周囲からは消極的にも選んだものとされてしまう。人や社会に対する不信感でもって、人と関わる必要がなければ本人にとっても自己責任的に考えるのは都合のいい事がある。だが、引きこもりは選べるものではない。哲学的問いや芸術的な創造などの孤独として、引きこもりの状態や経験を美化はできない。引きこもっている時の疲労感を、自らが選んだものとして自律的に身体を引きこもらせる方へ駆動させ、その疲労を転換するのは至難の業である。だが、そうでもなければ引きこもりは、過剰適応した末に、他者を排除する状態にもなれる。それでは運動にはならない。こういったことは引きこもりに限った話しではないが、周りから隠蔽され引きこもっているのは良くはない状態である。この長期化している疲労からの救済はされなくてはならないが、必要なのは社会復帰することや、再び車や電車に乗らせるような支援を受けることではない。支援に足場はないのだ。外に出て生活している他者も、自らの身体を保持するための疲れをひどく抱え、抗うこともままならない状態にある。ほとんどすべての人が、この引きこもる疲れを共感すること以外には何もできないのではないか。

¹ 上山和樹(1968-)『「ひきこもり」だった僕から』講談社2001年 彼の仕事はブログFreezingPoint(http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/)に詳しくある。

²常野雄次郎(1977-2018)『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』イースト・プレス2005年 彼は不登校ではなく自分が経験したのは登校拒否だと語っている。今回の発言は全国不登校新聞社による「不登校50年証言プロジェクト」による彼に対するインタービューからの抜粋(http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html)

2018年5月17日 髙橋淳敏

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