NPO法人 ニュースタート事務局関西

「日常と生活~施設論序章~」髙橋淳敏

By , 2020年5月29日 6:10 AM

 暖かい蕎麦を作ろうとした。5月にしては少し寒い朝だった。昼ごはんの仕込みに揚げさんを炊き、かつお出汁を取っていた。それを横目で見ながら、朝ご飯の後始末をしていた上の子が「温かい蕎麦?冷たい方が良かったな」と言った。そうか、ざる蕎麦かそれもいいと思ったが選択を間違ったな、もはや引き返しにくい手順を考え直して「今日は涼しいし、これから温かい蕎麦は食べにくくなるし」と言い訳をした。それはもう一方的な温かい蕎麦宣言となっていた。当然、上の子からの返答はなかった。加えて、いい機会と思ってしまい、夕食に食べたいものを聞くと、いつものように「ない」とだけ返ってきた。もし、昼ごはんを仕込む前に「温かい蕎麦か冷たい蕎麦どちらがいいか」と聞いていたら、どちらでもいいと答えたのか、冷たい蕎麦と答えたのかは分からない。いずれにしても過ぎた質問を繰り返すことになってしまった。最近は、こどもの分も含めて、昼夜と調理する機会が増えたので常にレパートリーというか作り手の食欲満足で、こどもに何か食べたいものはないかと聞く機会は増えたが、そのような時の返答は大体口を揃えて「ない」ということで、4月後半にはもう諦めていたのだった。だけど、例えばこどもに玉子焼き(明石焼)しようと言うと「それがいい」と返ってくるだろう好みを少しは知っている。それで玉子焼きを美味しくしようと、3月にはじん粉を明石の魚の棚まで調達しに行った。近くに寄ったついでではあったが。さらには、こどもは肉や魚介類など食べたいと親に要求しても実現しないだろうメニューを知っている。例えば、下の子はここ3、4年くらいカニを食べたいと言っているが、食べられていないというか、まだまともにカニを食べたことはない。カニカマくらいは食べているが、親のカニに対する欲目なのか、予算とシチュエーションがそれを許さなかった。いや、食べる方がいいとは思っているが、ここまできたら親から与えられなかった食材があるのもいいだろうとか考えたりで、そのような逡巡含みで、我々の食卓からカニ食を遠ざけることになっていた。一方で、夕食を囲いながらカニの話題で雰囲気がまずくなることもあれば、盛り上がることもある格好のネタになった。しばらくは。

 

 食欲は作り手の欲望でもある。多くは親が作り、子が食べるのだが、そこで子は自らの食欲を満たそうとしながら、親の欲望を知る。親はこういうものが食べたいのかということと、こういうものを子に食べさせたいのかということ、食欲に向き合う態度まで、子は知ることになる。そういった日常は、親から何か食べたい物はないかと聞かれて子が「ない」と答えることでもあり、親が子の食欲に応えきれなくなることでもある。外食はそういった日常の束の間の休息でもあり、他者の欲望であり自身の食欲を知ることでもあったわけだが、今回は学校給食も含めてその機会がなくなった。子の食欲はあらゆる親の選択肢の中で「ない」と答えることであり、我が家にとってはカニのように家では叶わないものとなったのだった。この仄暗い光で引きこもり家庭を照らして見るならば、食欲に限ったことではない。親は子に対して考えられるだけの外へ選択肢を提示することとなるが子は「ない」と答えるしかなく、子は今まで経験したことのないことを欲しながらも家では叶わぬことになる。食欲の担い手である子が外へと出ていかなければ、家の施設化は避けられなくなる。施設とは、人の生活を守るための設備ではあるが、風通しも悪く統治や管理などと結びつくならば、力を持つ者が施しをする場や設備へと、その本来の機能へと純化し、それぞれの欲は自粛される。家は不断の風通しによってしか施設化を免れないのだ。台所や備品など設備を使う権利が家人に保障されているのは当然のこととしても、家以外での調理や食べることのできる場が担保されていなければ、家人の生活の自由は保障はされない。プライバシーを保護するとしても、それは人を部屋の中に閉じ込めておくことではない。部屋や家以外での食のための活動を保障していくことである。

 

施設は大概の場合は閉じられている。施設内から開くことを常に努めていなくてはならないし、それでも外からの来訪者(他者)がいなければたちまちにして閉じられてしまう。今回の都市封鎖なる事態は、病院施設の崩壊を危惧するところから始まった。そもそも感染拡大のための対策は医療の仕事ではない。日常から医療従事者が病院という大施設に隔離されていたことが、この大きな事態へと発展したと考える。公民館なんかは便利な施設ではあるが、そこでしか集まりができないとなるとたちまちにして自由は奪われてしまう。それでも公民館でしかできないならば、それを使う人たちとの常なる協力が必要であったろう。今の核家族の中での親子関係が良いか悪いかは別にして、施設化に抗うような努力がされているとは思えない。今回、公民館自体が率先して長期間に渡り閉鎖されたのは、そこが人の生活を守るための施設ではなく、権力者が施しをする場や設備であることの証明ではなかったか。

2020年5月28日髙橋淳敏

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