NPO法人 ニュースタート事務局関西

次回鍋の会9/27に決まりました。

By , 2020年9月11日 10:28 AM

日時:9月27日(日)12時から16時ごろまで

場所:カフェコモンズ(高槻市富田町)

待ち合わせ:JR摂津富田駅改札前に11時45分(そこから歩いて5分ほどです。)

参加費:カンパ制

○今回もみんなで鍋を作って食べるという形ではなく、こちらで料理を(メニュー未定)作っておきます。

換気や消毒、食べる時以外はマスクをつけるなど対策をして集まりたいと思います。

参加希望の方は事務局まで申し込みしてください。他にわからないことなどありましたらお問い合わせください。

090-6050-3933

 

8月おしかけ鍋会報告

By , 2020年8月27日 10:17 AM

8月23日(日)おしかけ鍋の会開催しました。

参加は11名で、カフェコモンズのテーブルにたがいちがいに座る形になりました。

今回は集まって何鍋にするか考えて買い物行って作るといういつもの流れではなく、

作っておいた料理を食べて、その後話をするという感じでした。

チキンカレーの上にキンパと漬物

食べて少し落ち着いてきたところで恒例の自己紹介タイムです。

大人になるとみんなの前で自分のこと話す機会はあまりないので緊張もする時間ですが、

今まで月2回鍋の会をしていたときには自分の中では当たり前のようになってもきていました。

今回は久しぶりの鍋の会だったので、みんなの、言葉にうまくできないような話も自分なりに言葉を選んで伝えようとするこの時間は大事だなと改めて感じました。

自分も上手く話せないからこそ、他の人の話にもゆっくりと耳を傾けて何を言おうとしてるんだろうと想像する。

これから鍋の会をどうしていくのがいいかも話し合いました。

今日のこのやり方で来月もしてみたらどうかということになりました。

次回の鍋の会日時決定しだいまたご連絡します!

鍋の会あります!8月23日(日)

By , 2020年8月19日 9:28 AM

久しぶりにおしかけ鍋の会を開催します。

初めての方も、久しぶりの方も、お近くの方も、遠くの方もぜひご参加ください。

参加希望の方は事務局まで申し込みください。090-6050-3933

日時:8月23日(日)12時から16時ごろまで

場所:カフェコモンズ(高槻市富田町)

待ち合わせ:JR摂津富田駅改札前に11時45分(そこから歩いて5分ほどです。)

参加費:カンパ制

○今回はみんなで鍋を作って食べるという形ではなく、こちらで料理を(メニュー未定)作っておきます。

換気や消毒、食べる時以外はマスクをつけるなど対策をして集まりたいと思います。

8月の定例会報告

By , 2020年8月19日 9:23 AM

8月15日(土)定例会報告

7名(内ご家族2組)参加でした。

冒頭は戦後75年、経済成長を経たこの間に、企業で働くこと正社員にならないと価値がないような病理的な考え方、それにともなう消費生活が引きこもりの若者を生み出しているという話。

皆さんの話からは、親が決めた中、高、大学と生きてきて立ち止まるということについて。自分が少しでもやってみたいことって何だろうと、自分のペースでゆっくりと考えたり試してやってみたり失敗したり誰かと話しする機会もなく、将来についての意見を聞かれても答えられるはずもなく、意見がないなら親が調べた学校へ行くことも断ることもできない。それは親の(相手の)気持ちを想像できる人だからだし、その気持ちに何よりも答えなくてはと思うまじめで優しい子が多いからでは。そんな子がふと立ち止まる。親の引いたレールに乗ってきたのにここから先は自分で決めなさいと言われ、やりたいこと?わからない。希望もないとなると立ち止まるしかない。

立ち止まるのは悪いことではない。そこからやってこなかったことを1からやっていけばいい。自分のペースで自分で考えて他人と話して失敗して、でもその時隣に仲間がいる環境でないとできないことだと思う。そのことが重要だと私たちは考えてきました。そういう体験や気持ちのわかる人たちの集まれる場を作ること、出てきてもらえるように。

最後にストレートで力のある言葉がありました。「友だちが必要だよね。」

定例会に相談に来る親御さんたちは、子どもがいつかは就職してさもなくばせめてバイトをして自立してほしいと言います。それと同時に幸せに生きてほしいとも言われます。

でも今の時代、就職したりバイトしたりして自立してる人がみんながみんな幸せでしょうか。幸せになれないのはなぜか。本当に必要なものは何なのか。という話の中で。(く)

「新しい日常」高橋淳敏

By , 2020年8月15日 8:16 PM

 国の行政府が新しい日常と言い出した。それは、現在のコロナウィルス感染状況が、既存の社会資源をもってしてはどうにも国が保てないので、感染拡大しない程度に自助努力でなんとかやってくださいという放置、国の解散宣言にもとれる。現に、10万円給付や持続化給付金、Goto キャンペーン、異次元はいつだったか金融緩和など、それらは全く新しいものではなく、小金をばら撒いて船底に空いていた穴を塞ぐふりをしただけで、国としては方向性もなく羅針盤を失っている。見渡す限りの水平線、大海の上にぷっかりと浮かんだ頼りない穴の開いた船として、今の社会や経済が例えられるほどに、船上で営まれているはずの私たちの日常は心許ないことになっている。高齢の親にも会いに行くこともままならず、死に目にも会えず、友達と目の前で喧嘩もできない。それでまた金だけが頼りだ。だが、このような事態は今に始まったことだろうか。いや、コロナ前の私たちの日常も似たようなものであった。世界地図や羅針盤があったのではなく、それぞれが欲望のままに生きていけば市場は競争により最適化され、多少格差ができようが差別が解消されまいが、規制もせず植民地を広げ、比較的多数らしき人たちが以前より物質的には少し豊かになり、バブル後は小金持ちの比重が年々少なくなり貧困率が上がっても、それこそが人間の相対的な幸福であるという市場原理の荒地に暮らしているのではなかったか。市場原理こそが羅針盤であると信じ、土地を開発しすべての物や時間や人身まで売買される世界地図を作り出したのではなかったか。そして、私たちは新たにコロナ感染という以前とは写真のネガのように反転した世界地図を見せつけられ、感染拡大の動向を見ながら、自らの日常が暗転したかのように感じるのであった。

 

 それにしても何とも無様ではないか。ここは戦場、前線に送り出された兵士が茫然として立ちすくんでいるところから、自らが感染しているかもしれない不安に怯え、ここから見える事態を報告している。目の前には見えないウィルスという敵がいる。その敵は、前線にいるものを攻撃するだけでなく、空爆のような形で密集している市街地をランダムに攻撃もしてくる。不意打ちやとばっちりもある。それ大した敵ではないから進めと、ここ50年で編み出された単調な経済成長という名の隊列を引き連れ、見えない敵に精神論で突入していくものもあれば、多くの人はそのやり方では通用しないのではないかと傍観している。傍観しているものの中には、以前の日常を変えることもできずに突進する隊列に巻き込まれる人もあれば、後退し防空壕の設備を整え前の日常が戻ってくるように願っている人がある。訪問介護は受け入れても、親族を家に招き入れない。指定病院は野戦病院化し、前線となりそこがまた狙われる。新薬やワクチンなどの新しい武器を開発しようとするものや、遠隔的な経済で代替えしようとするものの多くは誤魔化しながらやっている。国に補償を求めても、ワクチン開発くらいしか藁をもなく、何の指針も立てられず言われるがまま、これまで大見得を切ってきた行政府のプレイヤーらしき植民地主義者やミソジニーや優生思想者たちは線上に立ち、球種も分からず空振りをしてみるばかり、大企業は貯めにためてきた内部留保を放ち貢献するわけでもなく、引き続きこういうときこそと保身を決めている。まあ2,3年くらいの辛抱で、感染や経済で多少の人が犠牲となったところで、自分に直接火の粉さえ飛んでこなければ、焼け太ることもできるし、組織の新陳代謝になるしで、感染が落ち着けば、またもとの日常が戻ってくるだろうと。目の前の犠牲よりも、ここで変化することによって将来的にリスクが高くなりそうな自らの人生の方が、優先されるべきだと。本当にそうなんだろうか。いや、怖いことに多くの人がそう考えているようなのだ。

 

 少なくとも子どもたちは見ている。大人たちの姿や今の社会の在り方を、その眼で。今回のウィルスは幸いにも子どもが感染して重症化するケースはあまり報告はされてはいない。子どもたちは考える。自分は感染しても死んでしまうほどではないが、大人たちに感染が蔓延しては、この社会や今の日常はひどいものになってしまうのだろうと。だから子どもたちも感染拡大防止に協力しているし、協力させらてもいる。自らに直接は害のないウィルスでも洗浄する。大人に従順である。だがどうだろう、ここで繰り広げられている事態は子どもにはどのように見えているだろうか。大人たちの差別や偏見、保身や金、混乱や誤魔化しを見て、子どもたちは何を考えるだろうか。大人になるということは何かに従うことではない。生き延びるためにも、学習し新たな事態をさらにも自分たちによって考え続け、決断することである。新しい日常と放置され警告されて、私でもこの国と運命を共にしたり、身をささげるようなつもりはない。いわんや子どもをや。

 

 新しい日常と誰かに言われなくとも、日常は感染によってもよらなくとも、変化はしている。明日どうなるかも分からない自らの生を一日だって今のような国や企業や学校に捧げるつもりはない。新しい日常がどのようであるかは、個人にゆだねられるしかない。ただ、社会や関係性や経済は、前のままであるはずもない。ヒントはコロナ前の過去にあり、批判すべきは近代といわれた戦前から今も続いている国やコロナ前時代の営みに関連することにあるだろう。引きこもり問題。失敗があった、なんでもありではない。私たちはウィルスの感染拡大を気にしながらも、集っている。ニュースやドラマからではなく、免疫機能や自律神経系から扇情されている。例え引きこもっていたとしても、いろんなところで新たな日常が営まれていることを願っている。いつでもどんな形であっても交流はできる。こういう時期だからこそ一人で考えるのには限界があるし、思うよりは話せる人があるだろう。

2020年8月15日  高橋 淳敏

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