NPO法人 ニュースタート事務局関西

「新しい日常」高橋淳敏

By , 2020年8月15日 8:16 PM

 国の行政府が新しい日常と言い出した。それは、現在のコロナウィルス感染状況が、既存の社会資源をもってしてはどうにも国が保てないので、感染拡大しない程度に自助努力でなんとかやってくださいという放置、国の解散宣言にもとれる。現に、10万円給付や持続化給付金、Goto キャンペーン、異次元はいつだったか金融緩和など、それらは全く新しいものではなく、小金をばら撒いて船底に空いていた穴を塞ぐふりをしただけで、国としては方向性もなく羅針盤を失っている。見渡す限りの水平線、大海の上にぷっかりと浮かんだ頼りない穴の開いた船として、今の社会や経済が例えられるほどに、船上で営まれているはずの私たちの日常は心許ないことになっている。高齢の親にも会いに行くこともままならず、死に目にも会えず、友達と目の前で喧嘩もできない。それでまた金だけが頼りだ。だが、このような事態は今に始まったことだろうか。いや、コロナ前の私たちの日常も似たようなものであった。世界地図や羅針盤があったのではなく、それぞれが欲望のままに生きていけば市場は競争により最適化され、多少格差ができようが差別が解消されまいが、規制もせず植民地を広げ、比較的多数らしき人たちが以前より物質的には少し豊かになり、バブル後は小金持ちの比重が年々少なくなり貧困率が上がっても、それこそが人間の相対的な幸福であるという市場原理の荒地に暮らしているのではなかったか。市場原理こそが羅針盤であると信じ、土地を開発しすべての物や時間や人身まで売買される世界地図を作り出したのではなかったか。そして、私たちは新たにコロナ感染という以前とは写真のネガのように反転した世界地図を見せつけられ、感染拡大の動向を見ながら、自らの日常が暗転したかのように感じるのであった。

 

 それにしても何とも無様ではないか。ここは戦場、前線に送り出された兵士が茫然として立ちすくんでいるところから、自らが感染しているかもしれない不安に怯え、ここから見える事態を報告している。目の前には見えないウィルスという敵がいる。その敵は、前線にいるものを攻撃するだけでなく、空爆のような形で密集している市街地をランダムに攻撃もしてくる。不意打ちやとばっちりもある。それ大した敵ではないから進めと、ここ50年で編み出された単調な経済成長という名の隊列を引き連れ、見えない敵に精神論で突入していくものもあれば、多くの人はそのやり方では通用しないのではないかと傍観している。傍観しているものの中には、以前の日常を変えることもできずに突進する隊列に巻き込まれる人もあれば、後退し防空壕の設備を整え前の日常が戻ってくるように願っている人がある。訪問介護は受け入れても、親族を家に招き入れない。指定病院は野戦病院化し、前線となりそこがまた狙われる。新薬やワクチンなどの新しい武器を開発しようとするものや、遠隔的な経済で代替えしようとするものの多くは誤魔化しながらやっている。国に補償を求めても、ワクチン開発くらいしか藁をもなく、何の指針も立てられず言われるがまま、これまで大見得を切ってきた行政府のプレイヤーらしき植民地主義者やミソジニーや優生思想者たちは線上に立ち、球種も分からず空振りをしてみるばかり、大企業は貯めにためてきた内部留保を放ち貢献するわけでもなく、引き続きこういうときこそと保身を決めている。まあ2,3年くらいの辛抱で、感染や経済で多少の人が犠牲となったところで、自分に直接火の粉さえ飛んでこなければ、焼け太ることもできるし、組織の新陳代謝になるしで、感染が落ち着けば、またもとの日常が戻ってくるだろうと。目の前の犠牲よりも、ここで変化することによって将来的にリスクが高くなりそうな自らの人生の方が、優先されるべきだと。本当にそうなんだろうか。いや、怖いことに多くの人がそう考えているようなのだ。

 

 少なくとも子どもたちは見ている。大人たちの姿や今の社会の在り方を、その眼で。今回のウィルスは幸いにも子どもが感染して重症化するケースはあまり報告はされてはいない。子どもたちは考える。自分は感染しても死んでしまうほどではないが、大人たちに感染が蔓延しては、この社会や今の日常はひどいものになってしまうのだろうと。だから子どもたちも感染拡大防止に協力しているし、協力させらてもいる。自らに直接は害のないウィルスでも洗浄する。大人に従順である。だがどうだろう、ここで繰り広げられている事態は子どもにはどのように見えているだろうか。大人たちの差別や偏見、保身や金、混乱や誤魔化しを見て、子どもたちは何を考えるだろうか。大人になるということは何かに従うことではない。生き延びるためにも、学習し新たな事態をさらにも自分たちによって考え続け、決断することである。新しい日常と放置され警告されて、私でもこの国と運命を共にしたり、身をささげるようなつもりはない。いわんや子どもをや。

 

 新しい日常と誰かに言われなくとも、日常は感染によってもよらなくとも、変化はしている。明日どうなるかも分からない自らの生を一日だって今のような国や企業や学校に捧げるつもりはない。新しい日常がどのようであるかは、個人にゆだねられるしかない。ただ、社会や関係性や経済は、前のままであるはずもない。ヒントはコロナ前の過去にあり、批判すべきは近代といわれた戦前から今も続いている国やコロナ前時代の営みに関連することにあるだろう。引きこもり問題。失敗があった、なんでもありではない。私たちはウィルスの感染拡大を気にしながらも、集っている。ニュースやドラマからではなく、免疫機能や自律神経系から扇情されている。例え引きこもっていたとしても、いろんなところで新たな日常が営まれていることを願っている。いつでもどんな形であっても交流はできる。こういう時期だからこそ一人で考えるのには限界があるし、思うよりは話せる人があるだろう。

2020年8月15日  高橋 淳敏

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