9月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
9月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
場所:クロスパル高槻 5階 視聴覚室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
9月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
9月4日(日)おしかけ鍋の会 12時~16時 第474回
場所:カフェコモンズ
待ち合わせ:11時45分にJR摂津富田駅改札前
参加費:カンパ制
参加資格:鍋会参加前後に定例会に参加していただけたらと思います。
※集まってから手分けをして鍋を作りたいと思います。
もちろん差し入れなども大歓迎です!みんなで集まりましょう。
コミュニケーションは手段でもない
コミュニケーションは日本語で、意思疎通と訳されるのか、交流や相互理解などの意味なのか定かではないが、外来語で今の日本社会になじんでいる言葉の一つである。前にここでコミュニケーションはコト(事)であり、民主主義国家の権力に対抗しうる唯一の手段であるようなことを書いたこともあったが、そのコミュニケーションは一般的には手段として考えられているようだ。例えば、他人を理解する手段としてコミュニケーションがあるといったり、何かの作業をするためにコミュニケーションが大事だとか、考え方が違う人たちはコミュニケーションが足りないとか、選挙など。コミュニケーションは、仲良くなるとか理解するとか上手くやるなど何か目的があって、その手段のように思われている。だから、例えばコミュニケーションに障害があるなんて考えが出てくる。コミュニケーションに障害のある人は、他人を理解することが難しいとか、人と協力ができないとか、仲良くなれないとか、手段であるコミュニケーションに問題を抱える個人という話しになる。
さて、先に挙げたコミュニケーションの日本語訳になっている意思疎通とか交流とか相互理解というのは、手段としてだけあるだろうか。例えば手段と目的を別に考えるような場合は、コミュニケーション自体が目的であることも多いのではないか。この辺は意見が分かれると思うが、少なくとも私は友達と会って話したりすることや、違う考えを持った人を理解しようとすること、非言語的なコミュニケーションなら猶更、それ自体が生きる目的と言ってもいいこともある。むしろ、勉強や仕事や作業なんかがコミュニケーションの手段であって、コミュニケーションこそが生活の目的のように考えることもできる。恋愛なんかがそうであるように、私たちは目の前にいる人をただ知りたいと思ったり、仲良くなりたいと思ったりして、話したり聞いたりする。そこに他の目的があったりはするが、その目的が明確であればそれらは説得や聴取であったり、指示など他の言葉に代わるが、意思疎通や交流や相互理解が目的であるときこそコミュニケーションは、他に代わりのきかない言葉として使われたのではないだろうか。コミュニケーションが双方の目的であれば、上手くできなかったときはどちらか一方の責任ではない。どちらか一方に障害があるのではない。コミュニケーションが目的ならば、お互いが協力してその障害を乗り越えるか、取り除く必要がある。コミュニケーションが上手くいかないことはあるが、それはどちらか一方に責任や障害があるわけではない。ただ、このようにコミュニケーションが目的であるという考え方自体が、それこそコミュニケーションを手段としてばかり使っている私たちの社会や組織において、コミュニケーションに障害を持っている考えられてしまいがちではある。
それで、コミュニケーションに障害を持っていると言われてしまう人は、その場や組織にいる多数の人と目的を共有していないと考えることができる。何らかの作業や目的を持った人が集まる中で、そこで意思疎通することを目的とする人は、他の人はそれを手段としているのでコミュニケーションを割り切るが、割り切ることができない人が作業をうまくやれなくなるのは想像しやすい。あるいは、友達になりたいとか仲良くなりたいということが目的なのに、仲良くなるのは手段であって何かやり遂げることが目的と考えている相手であれば、その関係が上手くいかなくなることもあるだろう。職場でコミュニケーションを目的にしてはいけないのかもしれないが、そこには少なからず意思伝達があるわけで、それらを割り切って考えられないことは誰にも多々ある。職場や学校で理由もなく落ち込んでいたり、機嫌が悪かったり、その場以外でのコミュニケーションは簡単に持ち込まれていることになる。コミュニケーションを目的にしたい人は、そういう他人の感情にとても敏感であったりもする。私たちの生きる目的とも考えられるコミュニケーションはどこにあるというのか。友達関係?恋人関係?親子関係?純粋な目的としてのコミュニケーションなんてどこにもないのではないか。違った考えの人や、違う言語の人、理解しがたい人とのコミュニケーションが自分を知ることであり、豊かさにつながるように、それが職場であっても付き合いの長い人とのコミュニケーションが手段でしかないというのは、なかなかに不可能なことなのではないだろうか。
私たちは普段、自分のことは自分が一番分かっていると思っている。でも、多くの場合はそんなことはない。もちろん誰か特定の人が自分のことを自分以上に分かるようなことはあまりないだろうが、自分とは違う考えを持ったような人が、自分のことを自分以上に分かっているようなことはある。差別されている人たちのことを差別する側は理解したいと思うが、差別されている人たちのことを知って分かるのは、差別する方の無知であったりする。差別問題は差別する自分たちのことを知らないのが問題である。差別される側に差別問題があったわけではなかった。短い論考ではあるが、要するに何が言いたかったかといえば、手段としてのコミュニケーションが上手くできないのは、能力や障害なんかのせいではなく目的が違うだけの話しであって、それは個人が悪いのではない。むしろ、コミュニケーションを目的とするならば、手段としてのコミュニケーションが下手に思われても何ら恥じることもなく、ただそれを目的として外へ出ていろんな人と交流して過ごすのがいいんじゃないか。
2022年8月20日 髙橋 淳敏
7月24日(日)真夏の鍋の会カフェコモンズで開催されました。7名参加でした。毎年この季節になると鍋の会とはいうものの「今日鍋やります…?」という言葉から始まることになる。実際冷たい鍋をするとなると前もって冷やしたり面倒そう…とあきらめるときも多いのですが今日は「そうめん」というキーワードが出てきたので割ととんとん拍子にそうめん鍋へと考えがまとまりました。そうと決まれば買い物と準備に取り掛かります。土鍋にゆでたそうめんを入れて、鶏ミンチや卵焼き、ナスやシイタケなど甘辛く焼いた具材を載せて、あとはみょうがやきゅうりを乗せてめんつゆをかけて氷を乗せて出来上がりました!!涼し気でそれでいて土鍋に入ったそうめんなべは想像以上に食べやすく、あっというまにお腹ぱんぱんになりました。美味しかったです。久しぶりの参加の方もいて暑い日でしたがみんなで集まれて良かったです。(くみこ)
7月16日(土)17名の参加がありました。そのうちご家族の方は5名でした。
こちらから冒頭少し話をしたあと、皆様からお話聞く中で意見を交換したりしました。
引きこもりの状態になるまでの生き方として、学生から働いた経験のないまま動けなくなってしまう場合と、一度働いたことがある上で続けられなくなり辞めてからこもりがちになってしまうという場合がある。今回も参加された家族の方から両方のお話がありました。一度働いた経験があり上手くいかなくなってやめることになった時の次動き出す際に感じるしんどさと、一度も働いたことがなく想像だけで膨らむ働くことへの怖さはまた違うと思いますが、どちらにも必要なのは親以外の大人に出会っていくことでしかないと感じました。それはなぜかというと、一度働いて社会に出た人はその時に出会った、うまくやれなかった人とはまた全く違う価値観を持った人間がたくさんいるんだということを知って、一緒に何かをする中で出会っていければ、希望や外への関心を持つことができるだろうから。まだ働いた経験がない人にとっては詳しく知る唯一の大人が親だけ、その価値観の中で育った本人にとっては絶対的な正解の姿になってしまっているからそうではないことを知るために。
親からの心配や願いとしては、外に関心を持っていないのではないか。遊びでもいいから何かしたいこと見つけて欲しい。楽しく暮らしてほしい。大学や学校も行かなくてもいい。仕事も今すぐはしなくていい。という声をよく聞きます。親は子に甘いし、子も親が言うことを聞いてくれるとわかっている、思い通りになる相手といるときに、子は意思決定なんてできるだろうか。自分と考え方も違う思い通りにならない他人と接するときに初めて自分はどうするか、どうしたいかが出てくる。親と子だけの関係だけではいつもでたっても何がしたいかはわからないのかもしれない。(くみこ)
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