NPO法人 ニュースタート事務局関西

「非暴力直接行動」髙橋淳敏

By , 2025年9月20日 8:05 PM

非暴力直接行動

 30度を少し超える日が、1カ月も続くことがなかった50年前の夏、クーラーはただ贅沢品であった。商業施設の集客目的や、職場の労働生産性をあげる欲望の商品。クーラー本体は、熱風を生み出す室外機の方で、機器としての本来の影響は外界にある。気密性が高く窓が閉ざされた建築物は、空気の流れの障壁となり、室外機から出された熱は滞る。さらにはアスファルトやコンクリートなどの無機物は、太陽熱を吸収せずに反射する。路面は70度を超えることもある。そして増え続ける二酸化炭素による地球温暖化によって、都市郊外に発生した熱だまりは、年々何重にも太く大きくなっていった。クーラーは各家庭や学校など公共施設にまで置かれるようになり、今では各個室にまで設置されることになる悪循環。ついに人の生活に不要であったクーラーは、生きるための必需品となった。遮断した部屋をより快適にすることが、人間が出て行けないほどの外界を作りだした。日中に外へ出る人は激減し、外仕事では扇風機のついた防暖着を装着する。遠くない将来、私たちは宇宙服のような装備を持たなければ出歩くことさえ難しくなるだろう。外界や自然と遮断された暮らしでは、人は幸福に生きることはできない。高齢者が熱中症の危険の中、クーラーを嫌悪し避けたりするのは、電気代がかさむこともあるが、かつての方が豊かであった記憶があるからではないか。だが本当に恐ろしいのは、これらを文明の発展とし、不可逆な進歩とする人々の意識である。自らが招いた悪状況を、目先の利益で対処することによりさらに悪い状況を作りだし、反省もせずまた対処することが文明の発展であり、主な経済活動として、生活を支配する。文明が破滅に向かって行くのではなく、文明は元より破滅的なのだ。

 成長は人が産まれてから、たかだか十数年の間で、二十歳にもなればほとんど止まる。こころや精神も成長するように例えても、大きくなったり伸びたり積みあがったりするものではなく、似た言葉で言い換えれば成熟する方が近い。いつからだろうか、人の精神やこころが成長するなどと云うようになったのは、そのようなイメージはたぶん経済社会の影響が大きいようだ。経済においては自然のものでもないのに、なぜか成長などと云う言葉を遣い、さらには成長し続けなくてはならない強迫観念がある。収入や支出、貯蓄や借金に至る時間経過が横軸にある、よく見る右肩上がりの棒線グラフである。成長とは、不可逆的で一方向的な概念である。こころも精神も、死ぬまで成長するのでもなければ(死に向かっていくことを成長と云うか?)、経済もずっと成長し続けることはあり得ないと、疑問に私は考えてきた。経済成長(神話)と「ひきこもり」差別の問題は根深い。「ひきこもり」差別は、経済成長社会が基底にある。「ひきこもり」が登場したのは、90年代でちょうど高度経済成長が止まった時代であった。それから「失われた30年」が続くが、その間は「ひきこもり」差別の絶頂期であった。経済や社会が全体的に引きこもっているのにも関わらず、「ひきこもり」と名指された人たちは、特別に反経済的社会的な行為者としてみなされた。病気や、障害や、無気力や、怠慢や、無能力などと個別問題化され、同じ引きこもる行為を差別化された。成長が止まったような時代だったので、「ひきこもり」と経済成長に関連はないように見えるかもしれないが、世間の経済成長への強迫観念が「ひきこもり」差別を生み出した。資本主義社会において、経済成長をしなくてはならない命題があり、思うように成長できない犯人捜しで、弱い者が叩かれた。フリーターや非正規雇用やニートなども似た差別構造の中にある。

 人口が減っていく、これからも急激に減るのに経済が成長するとは、経済が大きくなるとはどういうことか。グローバルに考えれば、人口が減っていく地域の経済が何もなくても大きくなることは考えられない。だから、日本地域というローカルな問題になる。近くを見渡せば、日々の消費はあれど個人の欲望はある程度飽和状態であり、技術革新も低コストで欲を満たす方向になっている。毎日牛肉を食べたいわけでもなければ、旅行や居酒屋にいくよりも家でフリーの動画を見て休んでいる人も多い。望んだ生活ではないかもしれないが事実、人口が減れば内需は落ちる。あとは、外需だが、それもまた今までの戦争の延長線上である植民地主義的な開拓経済は、無理筋である。それで今、猫も杓子も株とか為替とかの金融をやっているが、あれは所詮はゼロサムゲームである。天文学的な数字が日々動いていて見た目は激しくきらびやかに見えるが、大局には関係ない。日々誰かが大損をして、誰かが大儲けはするが、損したところで何もなければ、得たところでその金の使い途もない。宇宙開発を夢見たのははるか昔のことだ。主な活動としてはギャンブルであるが、金を持っている者が勝つのでギャンブルとも言えない。残るのはくだらない生活にも満たないルーティンだ。今後、私たちは成長しない経済、暮らしをしていかなくてはならない。失われた30年は、失われていたのではなく、成長しなくてはならないという強迫観念と神経症的に戦って、成熟すらできなかった30年であった。「ひきこもり」を差別し続けることによって、個別の問題とすることによって、失った30年であった。そういう意味では失われてはいる。繰り返してはならない。失われた前の経済を取り戻すことが目的ではなく、成長が失われた経済のまま、私たちは今後の暮らしを考えて、成熟していく必要がある。そこにおいて引きこもることは希望である。「ひきこもり」は労働力として生産性を高める存在、経済ではない。非暴力直接行動としての引きこもる行為は、それぞれにバラバラにされてきたが、いつか仲間と共に、引きこもる社会の方を事実として、成長しない発酵経済でも考えていこう。それが引きこもり問題の解決策である。

2025年9月20日 髙橋淳敏

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