「コミュニケーションは手段でもない」髙橋淳敏
コミュニケーションは手段でもない
コミュニケーションは日本語で、意思疎通と訳されるのか、交流や相互理解などの意味なのか定かではないが、外来語で今の日本社会になじんでいる言葉の一つである。前にここでコミュニケーションはコト(事)であり、民主主義国家の権力に対抗しうる唯一の手段であるようなことを書いたこともあったが、そのコミュニケーションは一般的には手段として考えられているようだ。例えば、他人を理解する手段としてコミュニケーションがあるといったり、何かの作業をするためにコミュニケーションが大事だとか、考え方が違う人たちはコミュニケーションが足りないとか、選挙など。コミュニケーションは、仲良くなるとか理解するとか上手くやるなど何か目的があって、その手段のように思われている。だから、例えばコミュニケーションに障害があるなんて考えが出てくる。コミュニケーションに障害のある人は、他人を理解することが難しいとか、人と協力ができないとか、仲良くなれないとか、手段であるコミュニケーションに問題を抱える個人という話しになる。
さて、先に挙げたコミュニケーションの日本語訳になっている意思疎通とか交流とか相互理解というのは、手段としてだけあるだろうか。例えば手段と目的を別に考えるような場合は、コミュニケーション自体が目的であることも多いのではないか。この辺は意見が分かれると思うが、少なくとも私は友達と会って話したりすることや、違う考えを持った人を理解しようとすること、非言語的なコミュニケーションなら猶更、それ自体が生きる目的と言ってもいいこともある。むしろ、勉強や仕事や作業なんかがコミュニケーションの手段であって、コミュニケーションこそが生活の目的のように考えることもできる。恋愛なんかがそうであるように、私たちは目の前にいる人をただ知りたいと思ったり、仲良くなりたいと思ったりして、話したり聞いたりする。そこに他の目的があったりはするが、その目的が明確であればそれらは説得や聴取であったり、指示など他の言葉に代わるが、意思疎通や交流や相互理解が目的であるときこそコミュニケーションは、他に代わりのきかない言葉として使われたのではないだろうか。コミュニケーションが双方の目的であれば、上手くできなかったときはどちらか一方の責任ではない。どちらか一方に障害があるのではない。コミュニケーションが目的ならば、お互いが協力してその障害を乗り越えるか、取り除く必要がある。コミュニケーションが上手くいかないことはあるが、それはどちらか一方に責任や障害があるわけではない。ただ、このようにコミュニケーションが目的であるという考え方自体が、それこそコミュニケーションを手段としてばかり使っている私たちの社会や組織において、コミュニケーションに障害を持っている考えられてしまいがちではある。
それで、コミュニケーションに障害を持っていると言われてしまう人は、その場や組織にいる多数の人と目的を共有していないと考えることができる。何らかの作業や目的を持った人が集まる中で、そこで意思疎通することを目的とする人は、他の人はそれを手段としているのでコミュニケーションを割り切るが、割り切ることができない人が作業をうまくやれなくなるのは想像しやすい。あるいは、友達になりたいとか仲良くなりたいということが目的なのに、仲良くなるのは手段であって何かやり遂げることが目的と考えている相手であれば、その関係が上手くいかなくなることもあるだろう。職場でコミュニケーションを目的にしてはいけないのかもしれないが、そこには少なからず意思伝達があるわけで、それらを割り切って考えられないことは誰にも多々ある。職場や学校で理由もなく落ち込んでいたり、機嫌が悪かったり、その場以外でのコミュニケーションは簡単に持ち込まれていることになる。コミュニケーションを目的にしたい人は、そういう他人の感情にとても敏感であったりもする。私たちの生きる目的とも考えられるコミュニケーションはどこにあるというのか。友達関係?恋人関係?親子関係?純粋な目的としてのコミュニケーションなんてどこにもないのではないか。違った考えの人や、違う言語の人、理解しがたい人とのコミュニケーションが自分を知ることであり、豊かさにつながるように、それが職場であっても付き合いの長い人とのコミュニケーションが手段でしかないというのは、なかなかに不可能なことなのではないだろうか。
私たちは普段、自分のことは自分が一番分かっていると思っている。でも、多くの場合はそんなことはない。もちろん誰か特定の人が自分のことを自分以上に分かるようなことはあまりないだろうが、自分とは違う考えを持ったような人が、自分のことを自分以上に分かっているようなことはある。差別されている人たちのことを差別する側は理解したいと思うが、差別されている人たちのことを知って分かるのは、差別する方の無知であったりする。差別問題は差別する自分たちのことを知らないのが問題である。差別される側に差別問題があったわけではなかった。短い論考ではあるが、要するに何が言いたかったかといえば、手段としてのコミュニケーションが上手くできないのは、能力や障害なんかのせいではなく目的が違うだけの話しであって、それは個人が悪いのではない。むしろ、コミュニケーションを目的とするならば、手段としてのコミュニケーションが下手に思われても何ら恥じることもなく、ただそれを目的として外へ出ていろんな人と交流して過ごすのがいいんじゃないか。
2022年8月20日 髙橋 淳敏