◎5月14日に予定していました鍋の会ですが21日に変更にさせていただきます。
・5月21日(日)おしかけ鍋の会
集まってからみんなで何鍋にするか考えて買い物に行って準備します。
初めての方も是非ご参加ください!
時間:12時~16時 第480回
場所:カフェコモンズ(JR摂津富田駅近く)
待ち合わせ:11時45分JR摂津富田駅改札口
参加費:カンパ制
参加資格:鍋会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加
※場所についてなど説明が必要ですので参加希望の方は必ず事務局までお申込み下さい。
・5月14日(日)おしかけ鍋の会
集まってからみんなで何鍋にするか考えて買い物に行って準備します。
初めての方も是非ご参加ください!
時間:12時~16時 第480回
場所:カフェコモンズ(JR摂津富田駅近く)
待ち合わせ:11時45分JR摂津富田駅改札口
参加費:カンパ制
参加資格:鍋会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加
※場所についてなど説明が必要ですので参加希望の方は必ず事務局までお申込み下さい。
4月15日(土)の定例会、参加は10名でした。(内4組の方がご家族)冒頭はこちらから定例会を始めた頃の話から引きこもり問題について話しました。「大学生の不登校」という言葉が出てきたのは1990年後半。今では特に違和感のない言葉だが、当時はこの言葉自体がおかしかった。どういうことかと言うと、それより前には毎日大学に通っているかどうかを親や社会がそれほど注目していなかったということ。だからこの問題が出てきたときも、本人が困るというよりは親が困って問題となった。世間からは、本人が怠けているとか、気力がないとか病気なのかなど言われたが、そうではなく社会の側に問題があるのでは、という仮説を持ったところからこの定例会が始まった。社会の側に問題があるというのは具体的には、競争社会やそれによる人間不信など。点数を上げるためだけに勉強することに問題はないのかと。そんな社会に参入しない彼らこそまともな感覚を持っているのではないか。例えば勉強がもっと身近で誰かと競うわけではなく、その勉強によって生きていく力を身につけていけるような学校であるなら。自分が社会に関わることでこの社会を変えていく主人公に(誰かがなるだろうではなく)自分がなれるんだと思えれば少し立ち止ったとしても動き出せるのではないか。
皆さんからは、引きこもりだしてから子どもとコミュニケーションが取れないというお話が多くありました。母親とは少しは話せているが父親とは一切話さないし顔も合わせない。他にも母親とも会わないように生活しているということもあります。親と子のコミュニケーションにおいて親は子を外の世界から守ろうとしている。例えば本人が嫌がるので親戚や知り合いの人を家の中にいれないようにしたり、必要なものは親が買ってきたり、本人がネットで買ったものを親が受け取るなど。こういう状態では、コミュニケーションにはならない。コミュニケーションを取りたいならその方法は1つだろう。自分の気持ちを正直に話すこと。良いようなこと正しいことを言うのではなく、自分が思っている本当の事を言わなくてはならない。知らないこと分からないことも正直に言うというのは親としては難しい。初めに子どもに対して、何を考えているのかこれからどうしたいのかを聞くのではなく、まず自分の考えていることや思っていることを話して聞いてもらう。たとえそれに返事がなくてもそこからコミュニケーションは生まれるだろう。当事者でもあって動きだせるようになってこの場に来てくれていた方が隣に座っている、子どもと同じ家の中にいるのに全く会えないというお母さんに一言、「顔を見たい」って正直に言っちゃあだめなんですか?と言ったのを聞いて、(あぁ本当だ。)と身体にすっとその言葉が入ってきました。子どもの顔を見たいし会いたいし話したい、そんな当たり前の気持ちさえ押し殺して、(きっと嫌がるだろうから)とか(いつもいない時間に自分がいたら怒るのではないか)など本人に聞く前にそういう風に考えてしまっている親御さんたちが多いのではないかと思いました。正直に自分の気持ちを伝えるというのは、そういうことなんだと改めて感じました。(くみこ)
5月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
5月20日(土)14時から (290回定例会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。
詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
引きこもり解放運動
引きこもり支援は、社会復帰(就学や就職など)を自己責任としてはいけない。「ひきこもり」という社会問題を個人に押しつけてはいけないと考えている。当人の社会復帰のために、治療や訓練や教育を、個々に施すのではない。ましてや重大なこの社会問題を障害として、狭義の福祉制度へと回収させてはならない。復帰する(変わらなくてはならない)のは社会の方で、「ひきこもり」問題の責任の所在は、今の日本社会にある。もちろん、「復帰」すべき帰るような社会の形が、過去にあったとは考えられないが、引きこもり問題を通じて、今とは違う社会が形成されてもいかなければ、引きこもり問題はいつまでも経っても解消はしない。若い人は今後も社会から隔離され続け、日々更新し変わり続けるはずの社会は、変りもせず衰退の一途をたどっていくことになる。この30年、例えば一人の「ひきこもり」が社会復帰をしたとしても、引きこもり問題は解消するどころか、解決から遠のいていった。「ひきこもり」が社会復帰をすれば、今の社会が強化されることはあっても、引きこもり問題を通じて問われるべき社会の責任は、その度に先送りにされてしまった。私は20年以上にも渡って、そのような場面を見てきたように思う。引きこもっていた人が、学校に行っても、就職をしても、この社会問題は何も変わらない。結果、「ひきこもり」も減らなければ、社会も変わらないかもっと悪くなっていった。引きこもり問題は「ひきこもり」の自己責任ではなく、会ったことがない人を「ひきこもり」と名指す差別的な社会の問題である。差別を受けたある人が私に教えてくれたのは、「差別は差別する側が問題なのであって、差別される側の問題ではない」という極めて単純なことだった。差別を受けた引きこもりは、あなたが問題だと言われるが、いったい何が問題なのかは分からない。学校に行っていないから?仕事をしていないから?いったいそのことの何が問題なのか。学校に行っている人、仕事をしている人の問題はなぜ問われないのか?点数を取るためだけに勉強をしたり、お金を稼ぐためだけに働くことに問題はないのか?差別者は、被差別者のことを理解したり支援したがるが、差別問題がなぜあるのかを知るには、差別をする自分自身を理解をしなければならない。なぜ、私は引きこもる人を「ひきこもり」と名指すのか?「ひきこもり」を個人の責任(病気や障害や怠けや無気力)として定義する社会こそが問題なのだ。20年以上、そのようなことを考えながら、私は引きこもり支援活動をやってきたが、いつも問題を抱えているのは私や社会の側であった。問題を抱えている社会や私たちと、その社会問題を一緒に考えてくれませんか?そうやって私は、彼・彼女らを誘い、問い続けてきた。だから会ってくれるだけでも有難かった。話を聞いてくれるだけでも、手紙を読んでもらえるだけでよかった。点数を取るためだけに勉強をして、人のことを成績により優劣をつけることは問題だし、全てお金でどうにかなったり、お金が何よりも大事であるという考えは、大変に問題含みである。そのような問題含みの社会から、引きこもることの一体何が問題なのだろうか。
問題含みの既存の社会、一人のひきこもりが復帰することで強化される社会、引きこもり問題が醸成された今の社会とは、どんな社会だろうか。以前は校内暴力や不良・非行などと言われ、権力や教師に反抗する子どもたちの気力が、1990年代にはいじめや不登校などその矛先が仲間や自分に向かっていった。無気力や自己責任という言葉が使われる土壌が学校などで生まれてきた。それまでは、上手くいかないことは社会や学校のせいにもできた。人と協力するパイプがあった。持て余しどうしようもならない若さ、そのエネルギーが向かう先に人や組織があった。良くも悪くもだが、できないことで向き合ってくれる相手がいた。それが、勉強ができないのも、進路が決まらないのも、友達ができないのも全てが自分のせいになった。できないことで向き合えるのは、向き合ってくれるのは自分しかいなくなった。戦争に負け、否定され批判されてきた社会は、高度経済成長の成功なのか、中身は悪くなったのに社会は常に肯定されるべき入れ物と化した。人が都市へと移ろい、人間関係は希薄になったと言われた世の中。入れ物としての社会を肯定するために人は生き、社会を肯定できない人の生は蔑ろにされた。人の生を肯定するために日々生成し、変容する社会は、ここにはない。バブル崩壊を最期に、日本の社会は終焉を迎え、その形を維持し、人は社会にしがみつくしかなかった。自己肯定感はこの時期に急激に下がっただろう。90年代後半には、「ひきこもり」という存在が名指され、その存在が社会問題として、爆発的にクローズアップされる。ほぼ同時期に、フリーターや非正規雇用なども社会問題となる。就職氷河期でもあって、若者がフリーターや非正規雇用でしか就職できない。その責任は当然、営利企業にあった。今までのように正社員として人件費を割けなくなった企業は、安価で使い捨て可能な商品と同じようにして人を使った。さらには、グローバル経済で競争は激化し、内部留保や投資資金も増えているのに、企業は人の生や生活を大事にすることはなかった。それにもかかわらずだ、それにもかかわらず、私は怒りを覚えているが、この不況の批判を受け、責任を取らされたのは、フリーターや非正規雇用の若い人たちだった。当時は、ほとんど多くの大人から、世間から「正社員じゃないと一人前として認められない」人としても認めないような意見があり、あらゆる場所で正社員になれなかった人に対する差別的な発言があった。それでも私たちは、誰かのせいにすることもできなくて、時代の終焉を、一人で抱え込まなくてはならなかった。当時のフリーターたちの孤独は、とても深淵であったと思う。社会問題としての引きこもりも、その深淵さの付近にある。前世代の栄華とその終焉を、皆が一人で抱え込んだ。「ひきこもり」は、期待されて育てられたが、どうやったって期待通りには生きることができなかった。
さて、文句はいい。では、どのような社会であればいいのか。そのことについて、一人ではなかなか考えられないが、今まで仲間たちといろいろと話し合ってきたようなことを書いてみたい。文字通り、希望であるが、スペースもなくなったので、また後ほどに。
2023年4月14日 髙橋淳敏