責任について
コロナウィルスに感染した。そんな話題はそこらにたくさんあって聞き飽きたと思うが。コロナウィルスがこの世界で認知されて丸4年が経ち、この間には世界でも身の回りでもいろんな出来事があった。2つの大きな戦争が起きた。それらは拡大はしても、収束するようには見えない。このまま世界を巻き込んでいくならば、コロナウィルスの流行と共に、世界史的なターニングポイントになるかもしれない。コロナウィルスも今ではオミクロン株と言われるようになって、この4年間で少なくとも14回の変異をしている。そのウィルスが世界中に蔓延して、ようやく自分の身体の中に辿り着いたと考えると、感慨深いというか、感染しないよう気はつけていたけども、仕方ないというか。朦朧とした思考で、降伏するしかなかった。一方で身体はその侵入に対して応戦の本番を迎えて、40度近い熱と共に発症していた。全身に炎症があり、常に疲労感が伴った。そして、身近な人にも感染をした。自分や人の身体へのケアの期間になった。症状などを比較していると、生活環境は同じでも、人によって発言の仕方がだいぶと違う。鼻やのど、肺なんかの炎症が一般的だが、私は特には嗅覚がなくなったのと、後遺症として皮膚炎に今も悩まされている。嗅覚は完治と言えない、7,8割は戻ったが、2週間ほどは世界から匂いが完全に消えて、それはとても過ごしにくかった。ガスの匂いや焦げた匂いのような危険を察知できなければ、腐ったものや汚物などの匂いもなく、自分の匂いも自覚できないのは、日常的な分別が不能になっていった。味覚はあるけども、嗅覚がないのは、不思議な経験でもあった。「味がしない?」と聞かれて、「いや、味はするのだけども、匂いがなくて美味しくない」という感覚の不可思議を何度も説明した。塩味、甘味、酸味、苦味、旨味なんかは分かっても、例えばこの酸味が酢によるものなのかトマトの酸味なのかが分からない。私はかつて重症化したこともあるアレルギー性鼻炎があったので、嗅覚がほとんどないという症状は何度も経験したが、嗅覚がほとんどないのと今回のように嗅覚が全く機能しないのは、また違った経験だった。アレルギー性鼻炎の場合は、嗅覚との間に厚いベールがあっても、その奥で嗅覚自体は働いている感じはあって、かすかな希望によって匂いは想像くらいできる。しかし、今回は嗅覚が全く働いていないので匂いを想像するのに記憶をたどるしかなくて、その記憶もかすかな匂いによってしか手繰り寄せることは不可能で、1割でも1分でも嗅覚の回復がない状態では、この世界から匂いという存在はないものとして諦めるしかなかった。そして、もっとも苦労したのは料理をすることだった。料理はかなりの部分を嗅覚に依存していたことに気づかされた。感覚の中で、料理という行為の初めから終わりまで継続的に関与しているのは、嗅覚くらいだった。なので、匂いがしなくなったら、料理をしていてもふとした瞬間に、一体何をしているのか分からなくなることが度々あった。料理は楽しいことではなくなり、できたものも嗅覚がなければ何を作っても美味しいくはなく。人が喜んでくれても嬉しくなかった。
コロナとのミクロな戦いはまだ終わらない。発症して一週間以上もたって、当初出た肺や鼻の炎症が緩和に向かっていた時期に、急に手の平やら足の指が痒くなった。乾燥し出した季節でもあったので、始めはコロナとの関連を疑わず、保湿クリームなど試してみたがよくならず、洗剤なんかのせいかと思って使わないようにしたり、外的な要因を防ぎ非ステロイド系の炎症止め外薬など試しても良くはならなかった。平行線か徐々に悪化するくらいで、もしかしたらこれもコロナウィルスに対する内側のアレルギー反応だと考えるようになった。もともと慢性的なアレルギー症状があったので、コロナウィルスによって引き起こされた新たなアレルギー反応で、アトピー性皮膚炎にも似た炎症が身体の内側から起きていると考えればおかしくはない。外的な刺激がある場所への内側からのアレルギー反応によると思われる炎症は続いてはいるが、当初のように急拡大するのでもなく小康状態でもあって、経過観察している。私や周囲の身体がそのようなミクロな戦いをしている最中に、遠く中東では一つの大きな戦争というか1000年以上も続いている戦いが新たな口火を切った。このような戦争が起きるたびに、遠くであっても人は、自分がどうすればいいか、もうすでに自分がどのような関係にあるのかを考える。考えてはみても、あるいは考えようとする以前に、自分たちの暮らしとあまりにも遠くに起きていることで、何かができるわけではないとか、関係ないなど無関心を装うことはあっても、知らないのではなく無関心であろうとすればするほど、戦禍の火の粉が飛んでこないかに、人はとても神経質になる。意識しなくとも、戦争が起こると人は、普段の争いごとにも神経を使うことになる。遠くであっても、人の命や人権がむごたらしく蹂躙されていることへの、大きいとか小さいとかでは測れない同時代的な「責任」がある。ほとんど何もできることはないかもしれないが、自分がこの世界に存在していることは、他人とのつながりを考えることに等しい。引きこもっている人を外に出そうと考えるとき、学校や職場への復帰なんてことが優先される。あるいは、元の状態に戻るために病院へ行くことなんかが推奨されたりもする。だが常々、引きこもっている人が外へ出ようとするとき、人と関わろうとするときの思いは、そういう元いた場所に戻ろうとする思いではないと考えている。手段としてのコミュニケーションではなく、目的としての交流であり、自分さえ良ければいいのではなく、他者が存在していることの「責任」が大事となる。
2023年10月21日 髙橋淳敏
9月16日(土)の定例会、参加は7名でした。(内2名の方がご家族)
翌日から17,18日と周年祭(25周年)を予定していましたので冒頭はその話もしました。社会が作ったこの「ひきこもり」とは何だったのか。病名でもなければ障害でもないあいまいな言葉。個人を変えて社会に復帰させるという支援によって、引きこもり問題はどうなっていったのか。
周年祭でもテーマになっている「暮らし」についても話しました。暮らしが変わった。何が変わったか。親の世代の暮らしとは地方から都会に出てきて核家族になり、マイホームマイカーを持つ。ほとんどの人がそういう暮らしを目指した。一億総中流と言われた。バブル崩壊のあと時代は変わっていくはずなのに団塊ジュニアが親と同じような暮らしを目指そうとする。成長は止まり、人口増加も止まり、内需は止る。そして引きこもり、不登校が出てくる。非正規雇用。結婚をしない、子どもを産まない選択。希薄な地域、めんどくさいことを手放していく暮らしによってこれは進んでいく。そうではなくて生きることに手間をかける。人と関わってやっていくことはめんどくさいし、うまく進まない。時間がかかるから力を合わせないとできない。家族の中でも親だけでは回らない。子にも役割ができる。お互いに頼って感謝して必要とされること。家族だけでもできないので他人が常にそばにいる。周りに一緒に生きていく仲間ができる。
みなさまの話から。親が子が生きていてくれて嬉しいという気持ちがなければ、引きこもっている状況においては誰からもwelcomeと思われていないことになる。他人と関わっていれば親以外の人からも必要とされていくことで親がどう思おうが気にならなくなるだろうが。
逃げ場をもっと作った方がいい。
社会の方に、子どもwelcome。生きていてくれてありがとう。という雰囲気がないのではないか。
周年祭報告
9月17,18日ニュースタートとCPAO合同での周年祭が無事にいいお天気で開催することができました。一日だけ参加の人なども含めて総勢33名のみんなで作り上げた二日間でした。泊りがけだし不確定なことばかりでしたが、自分たちだけじゃどうにもならない、参加したみんなで考えて動いていかないと何もできないだろうということだけは分かっていました。着いて大体の人が集まってお昼ご飯を食べたころにはもう当初の予定の時間は過ぎていて予定は頭の片隅においといて、この過程こそドタバタする中でも大事にしていくことが私たちの祭りだろうと思って動きます。室内で過ごすというよりは外で過ごすことになりますので、ご飯を作る場所をまず第一に作って、各自テントをはったり、野外映画上映に向けて準備をしたり、そうこうしてる間に夕食準備も始まります。今日の夕食は皆様からの持ちより食材で作るお鍋です。昆布でだしを取って、豚肉や鶏肉、根菜類などの固めのお野菜を煮て、味を見たらびっくりするくらい美味しいおだしが出ていました。塩や醤油、酒などで味を整えたら葉物野菜を入れてもう完成です。やっぱりたくさんで作ると少ない調味料でもとっても美味しいお鍋ができるんですね。おにぎりとお鍋大好評でした。オープニングアクトでやる予定だった歌や演奏、クイズなどを映画上映の前の時間でできました。周りも暗くなりお腹も心も満たされたころ、「めんどくさいことを手放さない暮らし」を上映しました。各自見えやすい場所に椅子を置いたり、木や石の上に座ったりしながら観ました。その後椅子を丸く囲んで映画のことや暮らしについて話しました。その周りで子どもたちは遊んだり、おこし続けている火の周りでゆっくりしたり、みんなが想い想いの場所で時間を過ごしました。眠るために準備する人やまだまだ話しを続ける人。夜のうちに帰らなくてはならない人もいて少しづつ動いていき長い夜を過ごしてゆっくり朝を迎えました。そしてまた朝ごはん、昼ご飯に向けて動き出します。一泊二日するということは「食べること」という大きな柱が中心にあり、それをみんなでなんとかかんとか回していく。その過程を楽しむということなんだなと改めて感じました。めんどくさいことをみんなでやって話して食べて笑った祭りとなりました。当日来れなくてもその前に話し合いに参加してくれたり支えてくださった皆様も含めたくさんのご協力ありがとうございました。皆様に参加してもらうことで成り立っていく活動です。これからもよろしくお願いします。(くみこ)
10月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
10月21日(土)14時から (295回定例会)
場所:クロスパル高槻
5階 視聴覚室 ※いつもと階が違いますのでご注意ください。
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。
詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
☆10月8日(日)おしかけ鍋の会
集まってからみんなで何鍋にするか考えて買い物に行って準備します。
初めての方も是非ご参加ください!
時間:12時~16時 第485回
場所:カフェコモンズ(JR摂津富田駅近く)
待ち合わせ:11時45分JR摂津富田駅改札口
参加費:カンパ制
参加資格:鍋会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加
※場所についてなど説明が必要ですので参加希望の方は必ず事務局までお申込み下さい。
問いをもち続ける
36名が殺された京都アニメーション放火事件から4年が経ち、先日初公判があった。自らも火傷を負い瀕死であった被告人を救った元主治医は「なぜこういうことが起きたのか、どうすれば防げるのかを社会全体で考えないといけない」と言う。被告人の名前を「さん」付けで呼ぶ遺族がいる。母親を殺された息子が、容疑者を恨むようになってほしくないとの理由だが、この父親であり元夫も「青葉さんが何でこんなことをやってしまったのか、みんなが目を向けて欲しい」と法廷の外へと訴える。裁判はいつものように被告人に責任能力があるかが争点となる。弁護側は「闇の人」という被告人の妄想による犯行で、責任能力はないと主張する。多くの命を奪った責任、その能力が今の被告人に不全なのは当然だが、弁護人や医者の妄想では収拾はつかない。責任能力を問われては、法定の中では、その有無しか弁護できないのだろうが悪手、事件の責任も被告人ごと闇に葬られてしまうのが常だ。元主治医や先の遺族は「なぜこんなことが起きたかについて」青葉被告を訴追しながら、今の社会で「誰しもが抱える心の闇」が、どのようにして一人個人が殺人や自暴自棄に至ったのかを追及している。同じようなことを再び起こさないために、そのためには青葉被告との協力も辞さない。「社会全体で考える」とはどのようにしてか。実は、追及されているのは私たち、社会ではないか。
もう何十年も前になるが、テレビのニュース番組の素人対談企画(そういった企画が現在はないので想像しずらくなった)で、たぶん学生だったと思うが若い人が「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問をして、いろいろと物議を醸したことを記憶している。その番組内だけではなく、質問の内容について、あるいはそういった質問が公然と出てきた状況について、のちにもいろんな場面で語られることがあった。マスメディア全盛の影響もあって、善悪や優劣という評価に留まらず、いろんな切り口の見解も出ていた。今のようにSNSで局所的刹那的な炎上で、傷つけた人と傷ついた人が焼けて、あとには何も残らないのではなかった。一定期間で、様々な意見とその余波や余韻があったように思うが、例えば作家の大江健三郎は朝日新聞の中で「この質問に問題がある」と言い「まともな子どもなら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」と、この3年前にノーベル賞を取った時代を代表するの知性が、およそ感情的にしか応答できなかった。今だったらこの問いと共にSNSで炎上しそうなものだが、駄目なものは駄目なのだといったこの質問に対する感情は、ほとんど多くの人が共有していたように思う。そう「なぜ人を殺してはいけないのですか」という質問自体が、挑発的であった。そのような挑発に乗ってはいけないというのが、一つの落としどころでもあったように思う。
だけども、釈然としない感じは私の中や世間でも残っていた。そもそも、この素人対談が企画されたのは、酒鬼薔薇を名乗る中学生が起した神戸連続殺人事件が前提とされていた。人は殺されていて、殺した、しかも少年がいる事実があった。「なぜ人を殺してはいけないか」という答えようのない問いは、マスメディアなんかで拡散され多くの人がこの問いを抱くこと自体が、おかしなことなんだと思いたい感情はわかる。だけど、この問いや人がこの問いを抱くことは拡散されたし、大江をはじめ多くの人がマスメディアの性質を知らずにか、その拡散に貢献した。それを頭ごなしに、そのような問いを抱くこと自体がおかしなことだと言われても、大江がまさに言ったまっとうな子どもではなく、自分はおかしな子どもだったのかという思いが残ってしまうだろう。若い質問者は自己顕示欲も伴ってか、質問は挑発的だったが、日々起こっている家庭内での殺人だけでなく戦争や死刑、人が故意に人の命を奪うことが日常茶飯事に起きている事実を前提にしていただろう。問いを明確に内省的に「人はなぜ殺人をおこなうのか」にすれば、テレビ的ではないにしても、質問者の青年の問いに対して、空中戦ではなくもっと時間と余裕をもって応えていくことはできたのかもしれない。
治安が悪い話ではない。むしろ治安は良いとされていた社会である。自殺も殺人であると考えるまでもないが、毎日のようにすぐ近くでも殺人は起こっている社会である。生殺与奪の権が自分も含めた特定の個人に委ねられているという状況こそ、おかしなことである。だからこそ国家のような仕組みや器を用意しているつもりなのかもしれないが、歴史的に見ればそれこそひどいことで戦争や虐殺、死刑など殺人をとどめる仕組みになっているとは、到底言えたものではない。どんなに優れた仕組みであったにしても、むしろそれが優れた仕組みであればあるほど、生殺与奪の権がその仕組みに委ねられているということは、大きな矛盾を含むことになる。私たち一人一人の「命」は自分や家族や企業や国家も含めた何者にも委ねられるものではない。いや、私は「戦争を知らない子どもたち」がこの世に産み落とした生であった、国民である前に人として育てられてきた。だからこそこの命は地球という茫漠とした所属意識の他、どこにも所属しないという感情はぬぐえない。だけど、戦時中に生まれた人や、高度成長期に生まれてきた人は、人である前に国民としてあるいは労働者として、育てられ生きたのかもしれまい。「命」が国家や企業に所属する時代はたぶんあった。だが私は今でも人が人の命を奪う事実を知ることがあっても、なぜそんなことが起きるのかについては分からない。それこそ頭で分かるようなことではないとは思うが、この問いは手放してはいけないことと思っている。私はあのときテレビで質問した同じくらいの年頃だった彼が、他人であるとは思えなかった。「なぜ人を殺してはいけないのか」命を何かに委ねるということは、人が人を殺すことがあるということではなかったのか。物質的には豊かなった時代ではあったが、すでに青年たちは追い込まれていた。
2023年9月16日 髙橋淳敏