「「ひきこもり」という問い」髙橋淳敏
「ひきこもり」という問い
引きこもることや少子高齢化が良いとか悪いとかではない。仕方がない。「ひきこもり」という問題が生まれた社会を考えるには、どこまで遡ればいいのだろうか。単純にはおよそ30年前「ひきこもり」という言葉が定着し出した1990年代の終わりが一つ。だが、「ひきこもり」を生み出す社会的背景は、すでに必要十分に条件は整っていたはずである。ところで、なぜ良くも悪くもない「ひきこもり」が問題となるのだろうか。個人が引きこもる時でも、社会で「ひきこもり」を問題とする時でも、少しくらい引きこもっている状態のときは、問題とはされない。学校や会社など、一つの場に依存し続けることは喜びや楽しみのように、人が生きる権利ではなく、しんどかったり嫌な目に遭ったりする、どちらかというと義務としての共通理解がある。学校で勉強することや、会社で雇われて働くことは、昔ほど自明なことではなくなってはいるが、依存度の高い場からの短期的な離脱は、あらかじめ定期休暇が設けられてあるように、休みは必然ともいえる。休みの日に「昨日は一日中引きこもっていたわ」なんてよく聞かれる友人への近況報告が、すぐに問題とされることはなく、ましてや社会問題になることはない。誰かが何もしなくて、一日を損したといったくらいである。その損をしたくらい感覚が、1日2日と続き、1か月2か月経ち、1年2年の期間にもなれば、焦燥感や不安が増大し、いつしかそれが個人や家族の問題となっていく。1年2年が、もし10年20年という年月になるのなら、どこまで続くかも分からなければ、終わらない保証もない。人の人生は限られてはいるので、この損をしている状態で人生を終えてしまいかねない。すでに、乗り遅れている。一体、何のためにこの世に生まれてきたのか。これは、引きこもった人だけの悩みではない。ほとんど、日頃から損得なんかで考えさせられることの多い近代の人間が抱く、答えのない問いである。だが、大人になって仕事や親になることでの役割があれば、このような問いは胡麻化されるだけで無くなりはしないが、その関係の中で焦燥感や不安は軽くなり、答えが薄められていく。親が子の「ひきこもり」を心配することや、子の生に期待をすることで、親自身の生への不安を拭い去るように。一方、引きこもって1,2年はまだ鮮明であった棘のような悩みは、強い焦燥感や不安の中で摩耗はしていくが、鈍化された経過とともに何もできなかったと思う過去が、「ひきこもり」という言葉に重みを与えていく。引きこもることは悪くはない。だが、その期間を損をしたと考えるのだとしたら、損をしたと振り返る未来しか想像できないのなら、それは不幸なことだ。例え就職をしたとしても、引きこもっている期間は損でしかなかったと思っているのならば、それも不幸である。とはいえ、学校や会社は、学んだり働いたりする生きる権利というよりも、この社会で生きていくための義務感を利用して運営がされている。そのような場にだけ依存しなくてはならない状況は、それがそもそも不幸であった。本来は一人で悩めるだけでも、引きこもれるような期間があることは、良いことであるはずなのだ。なぜそれが問題とされるかは結局、個人が問題ではなく、引きこもるような人が悩み自分で考え、生きていけるような場がない、すき間もない社会が問題である。豊かに引きこもることができないことが、この社会の欠点である。人生にとって損か得かしか教えないような学校か、損得でしか働きようのない職場にしか、身を委ねることができないのなら、あなたも「ひきこもり」と名指されたところで返しようがない。それとも「嫌なことを生きるために一生懸命やっているのに」と自らに課した鎖の重さをアピールし返すのか。生きることはつらくてしんどいことだと、嫌なことには目をつむれと説得して、部屋から出てくると思うか?
社会が引きこもり問題をどうにかしようとしているとは思えない。なぜ社会は「ひきこもり」を問題にするのかは、また別である。少子高齢化し、経済成長しなくなった社会の大きな問題の一つである。経済成長をしなくなって少子高齢化したのか、少子高齢化して経済成長しなくなったのか、引きこもりが多くなって経済成長しなくなったのか、経済成長しなくなって引きこもりが多くなったのか、あるいは少子高齢化と引きこもりの関係も、すべては起因や結果もまぜこぜに連動し、グローバルな影響も含めて、全ては必然であった。経済成長が終わったのは、人口も増加しなくなり内需が飽和し、植民国として外需を開拓できた戦後成長初期とは違って、海外も日本に依存しなくとも製造などは調達できるようになったからである。今、成長しているように見せかけているのは、分からんところに便乗して投資している金融部門だけで、株を保有している会社の株価は上がっても、働いている人や、ましてや庶民に還元されることはないのは当然である。少子化は、経済成長した株式会社や関連会社の労働を担った世代が、地方から都市へと流入し、核家族という生活形態になったところから始まっている。その世代は第二次ベビーブームを作ったが、単純に2人親に1,2人の子どもくらいで、自分たちと同じ人口を残したようではあるが、自らが産まれた第一次ベビーブームのように4人5人の子がいるような大家族でもない。何よりも、専業主婦など一人母親くらいしか子どもに関われない中で、子どもの生存を外注するやり方で、子育てを商品と同じサービスやコストのように考え始めたのはこのころからである。高齢化も多くの人が年を取って弱ることが問題なのではなく、高齢者の世話ができる人が少子化や核家族化の中で圧倒的に少なくなったのが問題で、介護などがこれも社会的コストとして躊躇いの中で、だが仕方なく考えられるようになったのは、1980年代後半である。子育てや、高齢者の生存が、社会的なコストとして考えられるようになって、経済成長もしなくなって何かを作るために求められて働くこともなくなった次世代はいったい何に希望を見いだせるのか。引きこもり問題は、今の社会に突き付けられている、解いていかなければならない重大な問いであり、希望もまたそこにしかないことがある。
2023年6月17日 髙橋淳敏
引きこもることや少子高齢化が良いとか悪いとかではない。仕方がない。「ひきこもり」という問題が生まれた社会を考えるには、どこまで遡ればいいのだろうか。単純にはおよそ30年前「ひきこもり」という言葉が定着し出した1990年代の終わりが一つ。だが、「ひきこもり」を生み出す社会的背景は、すでに必要十分に条件は整っていたはずである。ところで、なぜ良くも悪くもない「ひきこもり」が問題となるのだろうか。個人が引きこもる時でも、社会で「ひきこもり」を問題とする時でも、少しくらい引きこもっている状態のときは、問題とはされない。学校や会社など、一つの場に依存し続けることは喜びや楽しみのように、人が生きる権利ではなく、しんどかったり嫌な目に遭ったりする、どちらかというと義務としての共通理解がある。学校で勉強することや、会社で雇われて働くことは、昔ほど自明なことではなくなってはいるが、依存度の高い場からの短期的な離脱は、あらかじめ定期休暇が設けられてあるように、休みは必然ともいえる。休みの日に「昨日は一日中引きこもっていたわ」なんてよく聞かれる友人への近況報告が、すぐに問題とされることはなく、ましてや社会問題になることはない。誰かが何もしなくて、一日を損したといったくらいである。その損をしたくらい感覚が、1日2日と続き、1か月2か月経ち、1年2年の期間にもなれば、焦燥感や不安が増大し、いつしかそれが個人や家族の問題となっていく。1年2年が、もし10年20年という年月になるのなら、どこまで続くかも分からなければ、終わらない保証もない。人の人生は限られてはいるので、この損をしている状態で人生を終えてしまいかねない。すでに、乗り遅れている。一体、何のためにこの世に生まれてきたのか。これは、引きこもった人だけの悩みではない。ほとんど、日頃から損得なんかで考えさせられることの多い近代の人間が抱く、答えのない問いである。だが、大人になって仕事や親になることでの役割があれば、このような問いは胡麻化されるだけで無くなりはしないが、その関係の中で焦燥感や不安は軽くなり、答えが薄められていく。親が子の「ひきこもり」を心配することや、子の生に期待をすることで、親自身の生への不安を拭い去るように。一方、引きこもって1,2年はまだ鮮明であった棘のような悩みは、強い焦燥感や不安の中で摩耗はしていくが、鈍化された経過とともに何もできなかったと思う過去が、「ひきこもり」という言葉に重みを与えていく。引きこもることは悪くはない。だが、その期間を損をしたと考えるのだとしたら、損をしたと振り返る未来しか想像できないのなら、それは不幸なことだ。例え就職をしたとしても、引きこもっている期間は損でしかなかったと思っているのならば、それも不幸である。とはいえ、学校や会社は、学んだり働いたりする生きる権利というよりも、この社会で生きていくための義務感を利用して運営がされている。そのような場にだけ依存しなくてはならない状況は、それがそもそも不幸であった。本来は一人で悩めるだけでも、引きこもれるような期間があることは、良いことであるはずなのだ。なぜそれが問題とされるかは結局、個人が問題ではなく、引きこもるような人が悩み自分で考え、生きていけるような場がない、すき間もない社会が問題である。豊かに引きこもることができないことが、この社会の欠点である。人生にとって損か得かしか教えないような学校か、損得でしか働きようのない職場にしか、身を委ねることができないのなら、あなたも「ひきこもり」と名指されたところで返しようがない。それとも「嫌なことを生きるために一生懸命やっているのに」と自らに課した鎖の重さをアピールし返すのか。生きることはつらくてしんどいことだと、嫌なことには目をつむれと説得して、部屋から出てくると思うか?
社会が引きこもり問題をどうにかしようとしているとは思えない。なぜ社会は「ひきこもり」を問題にするのかは、また別である。少子高齢化し、経済成長しなくなった社会の大きな問題の一つである。経済成長をしなくなって少子高齢化したのか、少子高齢化して経済成長しなくなったのか、引きこもりが多くなって経済成長しなくなったのか、経済成長しなくなって引きこもりが多くなったのか、あるいは少子高齢化と引きこもりの関係も、すべては起因や結果もまぜこぜに連動し、グローバルな影響も含めて、全ては必然であった。経済成長が終わったのは、人口も増加しなくなり内需が飽和し、植民国として外需を開拓できた戦後成長初期とは違って、海外も日本に依存しなくとも製造などは調達できるようになったからである。今、成長しているように見せかけているのは、分からんところに便乗して投資している金融部門だけで、株を保有している会社の株価は上がっても、働いている人や、ましてや庶民に還元されることはないのは当然である。少子化は、経済成長した株式会社や関連会社の労働を担った世代が、地方から都市へと流入し、核家族という生活形態になったところから始まっている。その世代は第二次ベビーブームを作ったが、単純に2人親に1,2人の子どもくらいで、自分たちと同じ人口を残したようではあるが、自らが産まれた第一次ベビーブームのように4人5人の子がいるような大家族でもない。何よりも、専業主婦など一人母親くらいしか子どもに関われない中で、子どもの生存を外注するやり方で、子育てを商品と同じサービスやコストのように考え始めたのはこのころからである。高齢化も多くの人が年を取って弱ることが問題なのではなく、高齢者の世話ができる人が少子化や核家族化の中で圧倒的に少なくなったのが問題で、介護などがこれも社会的コストとして躊躇いの中で、だが仕方なく考えられるようになったのは、1980年代後半である。子育てや、高齢者の生存が、社会的なコストとして考えられるようになって、経済成長もしなくなって何かを作るために求められて働くこともなくなった次世代はいったい何に希望を見いだせるのか。引きこもり問題は、今の社会に突き付けられている、解いていかなければならない重大な問いであり、希望もまたそこにしかないことがある。
2023年6月17日 髙橋淳敏