NPO法人 ニュースタート事務局関西

「問いをもち続ける」髙橋淳敏

By , 2023年9月16日 5:00 PM

問いをもち続ける
 36名が殺された京都アニメーション放火事件から4年が経ち、先日初公判があった。自らも火傷を負い瀕死であった被告人を救った元主治医は「なぜこういうことが起きたのか、どうすれば防げるのかを社会全体で考えないといけない」と言う。被告人の名前を「さん」付けで呼ぶ遺族がいる。母親を殺された息子が、容疑者を恨むようになってほしくないとの理由だが、この父親であり元夫も「青葉さんが何でこんなことをやってしまったのか、みんなが目を向けて欲しい」と法廷の外へと訴える。裁判はいつものように被告人に責任能力があるかが争点となる。弁護側は「闇の人」という被告人の妄想による犯行で、責任能力はないと主張する。多くの命を奪った責任、その能力が今の被告人に不全なのは当然だが、弁護人や医者の妄想では収拾はつかない。責任能力を問われては、法定の中では、その有無しか弁護できないのだろうが悪手、事件の責任も被告人ごと闇に葬られてしまうのが常だ。元主治医や先の遺族は「なぜこんなことが起きたかについて」青葉被告を訴追しながら、今の社会で「誰しもが抱える心の闇」が、どのようにして一人個人が殺人や自暴自棄に至ったのかを追及している。同じようなことを再び起こさないために、そのためには青葉被告との協力も辞さない。「社会全体で考える」とはどのようにしてか。実は、追及されているのは私たち、社会ではないか。
 もう何十年も前になるが、テレビのニュース番組の素人対談企画(そういった企画が現在はないので想像しずらくなった)で、たぶん学生だったと思うが若い人が「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問をして、いろいろと物議を醸したことを記憶している。その番組内だけではなく、質問の内容について、あるいはそういった質問が公然と出てきた状況について、のちにもいろんな場面で語られることがあった。マスメディア全盛の影響もあって、善悪や優劣という評価に留まらず、いろんな切り口の見解も出ていた。今のようにSNSで局所的刹那的な炎上で、傷つけた人と傷ついた人が焼けて、あとには何も残らないのではなかった。一定期間で、様々な意見とその余波や余韻があったように思うが、例えば作家の大江健三郎は朝日新聞の中で「この質問に問題がある」と言い「まともな子どもなら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」と、この3年前にノーベル賞を取った時代を代表するの知性が、およそ感情的にしか応答できなかった。今だったらこの問いと共にSNSで炎上しそうなものだが、駄目なものは駄目なのだといったこの質問に対する感情は、ほとんど多くの人が共有していたように思う。そう「なぜ人を殺してはいけないのですか」という質問自体が、挑発的であった。そのような挑発に乗ってはいけないというのが、一つの落としどころでもあったように思う。
 だけども、釈然としない感じは私の中や世間でも残っていた。そもそも、この素人対談が企画されたのは、酒鬼薔薇を名乗る中学生が起した神戸連続殺人事件が前提とされていた。人は殺されていて、殺した、しかも少年がいる事実があった。「なぜ人を殺してはいけないか」という答えようのない問いは、マスメディアなんかで拡散され多くの人がこの問いを抱くこと自体が、おかしなことなんだと思いたい感情はわかる。だけど、この問いや人がこの問いを抱くことは拡散されたし、大江をはじめ多くの人がマスメディアの性質を知らずにか、その拡散に貢献した。それを頭ごなしに、そのような問いを抱くこと自体がおかしなことだと言われても、大江がまさに言ったまっとうな子どもではなく、自分はおかしな子どもだったのかという思いが残ってしまうだろう。若い質問者は自己顕示欲も伴ってか、質問は挑発的だったが、日々起こっている家庭内での殺人だけでなく戦争や死刑、人が故意に人の命を奪うことが日常茶飯事に起きている事実を前提にしていただろう。問いを明確に内省的に「人はなぜ殺人をおこなうのか」にすれば、テレビ的ではないにしても、質問者の青年の問いに対して、空中戦ではなくもっと時間と余裕をもって応えていくことはできたのかもしれない。
 治安が悪い話ではない。むしろ治安は良いとされていた社会である。自殺も殺人であると考えるまでもないが、毎日のようにすぐ近くでも殺人は起こっている社会である。生殺与奪の権が自分も含めた特定の個人に委ねられているという状況こそ、おかしなことである。だからこそ国家のような仕組みや器を用意しているつもりなのかもしれないが、歴史的に見ればそれこそひどいことで戦争や虐殺、死刑など殺人をとどめる仕組みになっているとは、到底言えたものではない。どんなに優れた仕組みであったにしても、むしろそれが優れた仕組みであればあるほど、生殺与奪の権がその仕組みに委ねられているということは、大きな矛盾を含むことになる。私たち一人一人の「命」は自分や家族や企業や国家も含めた何者にも委ねられるものではない。いや、私は「戦争を知らない子どもたち」がこの世に産み落とした生であった、国民である前に人として育てられてきた。だからこそこの命は地球という茫漠とした所属意識の他、どこにも所属しないという感情はぬぐえない。だけど、戦時中に生まれた人や、高度成長期に生まれてきた人は、人である前に国民としてあるいは労働者として、育てられ生きたのかもしれまい。「命」が国家や企業に所属する時代はたぶんあった。だが私は今でも人が人の命を奪う事実を知ることがあっても、なぜそんなことが起きるのかについては分からない。それこそ頭で分かるようなことではないとは思うが、この問いは手放してはいけないことと思っている。私はあのときテレビで質問した同じくらいの年頃だった彼が、他人であるとは思えなかった。「なぜ人を殺してはいけないのか」命を何かに委ねるということは、人が人を殺すことがあるということではなかったのか。物質的には豊かなった時代ではあったが、すでに青年たちは追い込まれていた。
2023年9月16日 髙橋淳敏

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