NPO法人 ニュースタート事務局関西

「世間の目」  長井 潔(10月号分)

By , 2015年10月14日 10:00 AM

ひきこもりの若者やその家族が家族の中でお互いに軋轢を感じていることが多い。親子の軋轢について、何を原因と見ようか悩ましい話になったりする。

日本全体でも家族の中での争いや事件が目につく。2013年の殺人事件検挙件数のうち、被疑者と被害者の関係が親族間である割合は53.5%。2000年以降も殺人事件は減少傾向だが、親族間の殺人事件は上昇傾向だ。最近は若者が親を殺す例が目立っている。この傾向の原因を個々の家族だけに見るのは無理がある。親子の軋轢について、個別の文脈から見るのでは理解不十分であるならば社会の側からの文脈、つまり長引く不況による経済的困窮、などに原因を見るか?

社会に問題はあるが、この国には最終的なセーフティネットとして生活保護の制度もあれば自己破産という方法もある。苦しい選択肢かもしれないが経済面だけを見るなら解決策はある。まして大切なはずの家族の命を奪うなんて事件にまで発展するはずがない。ここには何か飛躍がある。経済の文脈では片付けられない何か別の文脈が潜んでいる。

そこで思いだされるのが「世間に合わせる顔がない」「世間に対して恥じぬよう」という言葉。世間の文脈が今も日本人を動かしているのではないか。

若い世代にとって「世間」はわかりづらい。しかし「空気を読め」と彼らはよく言う。非日常の状況で空気がその場を支配することは昔からあった。山本七平は、太平洋戦争の開戦や戦艦大和の特攻は場の空気によって決定されたと書いている。今は学校の教室にさまざまな空気が充満しており、生徒は息苦しく毎日を送る。現にいじめ自殺は仲良しグループの「中」で起こることが多くなってきた。

実は「空気」とは「世間」の流動化した姿だと考えられる。世間や空気という言葉に相当する英語はない。これらは日本にしかない、日本人を律する文脈だ。「ひきこもり」が日本と一部の外国にしか存在しないことと相似形だ。

ひきこもりの親子の間の軋轢も暴力も、その怒りを本当に向けるべき相手は世間だろう。ところが彼らは親子ともども、世間を前にして恐れおののいている。親子ともに「このままでは世間に合わせる顔がない」と無意識に当然のように考えており、他の考え方や行動の可能性が見えていない。

子供は世間への窓口、あるいは世間を代表する存在として父親を見るから、軋轢の矛先を父に向けてしまう。父親としてはそのイメージを壊さなければ厄介なことが起こりそうだ。自分は決して立派ではないと、大げさに何回も繰り返して表現しなければ子供を圧迫し続ける。自分がいかにいつも外で気苦労を重ねているか、それでも何とかやれているとか、世間をうまくかわしたりさぼったりする方法など伝えるくらいがよい。

若者は、自分の感覚を疑うことが必要だ。あなたをひきこもらせた真の原因が、あなたや家族の中にはなく、社会のいたるところに存在する、目に見えない、不定形の、「空気」を発生させている、この国のかたちにあるのだとすれば。

「近所の目」  長井 潔(9月号分)

By , 2015年10月13日 10:00 AM

前回、家族の中の固定化してしまった文脈が変更されることをきっかけに社会に出た若者の話をした。親子でなくても周囲との固定した人間関係の文脈はある。その関係に息苦しさを感じる場合に、私たちはその文脈を変更できるだろうか。
わが家の斜め向かいに、玄関前に座って道行く人をいつも眺めているおばさんがいる。おばさんはあまりにいつもいるのであいさつがやりにくい。他のご近所さんと話し込んでいることも。自治会ではよく運営に注文を付けるタイプ。わが家に注文が来たこともある。長く伸びすぎた木の枝を切れと言うが、忙しくて放っておくと、ある日勝手に切ってから、切ったよと言ってきた。イラッときたし、あいさつなどもよけいにやりづらくなった。

 

近所の人とはひきこもりの若者が苦手とする「半知り」の人である。以前にニュースタートに通っていたある若者は、近所の人の視線が気になってなかなか外に出られなかった。時間に遅れて来た時「例のおばさんが外に出ていたからいなくなるまで外に出られなかった」と。彼は強迫的な観念が高じているのか、近所で自分に関するよからぬうわさがおばさんを中心に飛び交っている、なども話していた。

わが家の道路の前で座るおばさんもそういう感じの、私にとって厄介な存在だった。
きっかけは、ある日テレビで放映していた空き巣事件に関するドキュメンタリーだった。いわくどのような手口で入るのか、入りやすい盗みやすい家はどんなものか。それを見ながら私はため息をついた。というのもわが家では飼い猫がよく外に出かけたがる。朝に猫が先に出ていると、ガラス戸を少し開けたままにして出かけることになる。不用心だが解決策はない。
よくこんな不用心な家が無事でいるものだ、と思ってはいたが、今回テレビを観て、やっぱりおかしいとあらためて思った。テレビの事例と比べたらもう、この家は絶対に空き巣に入られているはずの家だ。なにゆえ今まで無事に来ているのか?

 

テレビ番組で報じられていた空き巣の例はオートロックの高層マンションだった。しかしこの家はそういう地区にはない。近所の目が光っている。おばさんが平日の昼間から私の家の斜め向かいの玄関先に座って道行く人を見ている。ということは、あのおばさんはこの地区、しかも特にわが家をいつも守ってくれていたのだ、だからわが家は10年以上も空き巣に出会わなかったのだ・・・。

おばさんに対する気持ちは自然に変わった。

 

ある夕方近所まで帰ってくると、おばさんがある男性と口論していた。男性が畑作業のごみを勝手に捨てているのではないかと疑っていた。私は例のごとく聞かないふりをして通り過ぎた。いつもだったらこのようにやりすごすのだが、今回は戻っておばさんに詳しく事情を聞いてみた。あいさつ以外の会話をするのは何年ぶりだろうか。おばさんは一通り心配を話した後で私の家族の近況も聞いたりする。長い立ち話になった。

今後私とおばさんの間にある文脈は「やりにくい近所の人同士」から「やりにくい近所の人をともに懸念する近所仲間」に変わるのではないかと予想している

「親子の文脈」第2回  長井 潔(8月号分)

By , 2015年10月10日 10:00 AM

固定的な人間関係では、過去のコミュニケーションの経験から当事者にしかない文脈が作られるものだと思う。仮にその文脈が不健全なものであったとして、その文脈を変更するなんてことは可能だろうか?

 

ニュースタートに通所で通うようになったある一人の若者は、2年ほどグループでの就労に関する体験など大きな問題なくされてきた。しかしある日突然「いつまでいるかわからない。来月でやめるかも」と言い出した。そこで話し合いの場を持つと、彼が言うのは家族の関係で苦しんでいるという内容に終始する。家族が理解してくれない、本人の話に耳を傾けてくれるような雰囲気がない。両親とも同居の祖父の言動に振り回されている。思わず「それだったら家を出ないと!」と言ってしまった。彼の家族に問題はあるのかもしれないが家族の悩みに終始するところに本人の問題があると見てとれた。

この頃たまたま父母懇談会にこのお母さんが参加された。話をうかがっていると子供の問題に理解のある母親に見えた。私はどうしようかと思いつつ、彼から聞いた話を伝えた。母は困惑していた。
もちろん祖父の癖は母なりに理解しており配慮を十分にしていると。
それでも本人は困っているのです、と私はやや強めに言った。
お母さんは最後まで悩みながら父母懇談会を終えた。私も悩んだ。本人と母親が感じていることの食い違いは私としても判断のしようがなかった。

 

その後通所に出てくる本人の表情が明らかに明るく変わった。聞くと「問題は解決したんです」と。彼は家族との関係が良い方向に少し変わったと感じていた。同時に今月中に卒業したい旨を表明。しかも家を出ることはやめて、家にいて祖父の面倒を見たり家から通える仕事をしようと考えている。「今は話すことがない」と言うので話し合いも継続せず、母も了解しているというので月が変わるとそのまま活動を終えてしまった。その後彼からは学校が順調に進んでいることの報告をいただくことができた。同じ時期に母親からも私たちの支援について感謝しているとのメールがあった。その数年後彼は専門学校を卒業して就職することになる。結局何が起こっていたのか?

 

文脈が変更されたのだ。この母と子のそれぞれは何も変化していない。だが二人の間にあるものが変わることによって子がのびのびと社会に参加していくための扉が開かれたのだ。具体的にはおそらく、母が祖父に対してしっかり対決したのだと思う。こうして親子の間もしくは家族の中で長年培われてきた固定的な関係性が、たった数日で変更されるということが、この親子の場合起こりえたのだ。

ただし通常では文脈の変更はなかなかに難しいものだろう。文脈を変更させる試みはほとんどの場合、本人たちの意図に反して、すでにある文脈を強化するだけにつながりかねない。それでも文脈を変える意思のある親御さんのもとではじめて、ニュースタートの若者への支援は充実するものかもしれない。

「親子の文脈」第1回 長井 潔(7月号分)

By , 2015年10月9日 9:27 AM

それぞれの一対の人間関係にはその当事者2人にしかわからない理解の型がある。冗談をいつも言い合う仲の片方が真剣な話を伝えるには「これは真面目な話なんだけど」とまず話の前提に関する注釈を付けてからでないと切り出せない、などのように。これが親子の関係になるとさらに独特の意思疎通のパターンができておりその一組の親子にしか伝わらない細やかなニュアンスがある。このような、表現の奥にあり当事者だけは把握しているかもしれない共通理解のパターンを「文脈」と表現するものだと思う。多くの場合文脈はその瞬間の表現だけではつかめず、それ以前のコミュニケーションの経験から類推されるものだ。固定的な人間関係においては「それ以前」が、数分前から数十年前にも及ぶものかもしれない。
例えば私の娘は私のことを「お父さん」と呼ばず「おっさん」と呼ぶ。他人にはなぜこのような呼び名が成立したのかかいもく見当もつかないだろう。娘が2歳くらいの時に父子で公園に行き、父である私がはて何をすればよいのかと困り、周囲の母子で遊んでいるグループに入ることもできず、ただ父親らしく「遊んでいなさい」など言っても子供だって何も面白くないだろうと考え、2歳の娘の弟にでもなった気分で、子供と同じ目線で同じように砂場で遊んだことがあり、それがうまくいったと感じられたので以降も私は子供と同じ目線でコミュニケーションするようになった。つまりほとんどの場合私と娘は遊ぶか冗談を言う仲になった。叱りつけることなどありえなかった。まだそのころ子供は私のことを「お父さん」と呼んでいたが、子供が小学生になって友達の親を見るようになり、自分の親がいわゆるふつうの「お父さん」と呼ばれる存在とは相当違うふるまいをしていることに気づくようになり、「この人はお父さんではない」と言いだして呼び名が変わるようになり最終的に「おっさん」という呼び名に落ち着いたのだ。

 

この関係性がなぜ定着できたかと言うと、通常「おっさん」である私と娘の関係性にはオプションのスイッチ機能があり、例えばいじめを受けたときとか進路に関する問題など、ふつうに相談しなければならない内容を抱える時には親として対応する。この瞬間に遊びや冗談は一切消える。これこそ長い年月で培った文脈なので、2人ともあうんの呼吸でスイッチを切り替える。器用と言えば器用だが、私にしてみればむしろたまに出る父親らしいふるまいなので窮屈もない。このような私と娘のコミュニケーションの文脈は十数年保たれてしまった。この文脈が成立してしまった前提として一人っ子であるとか私が他の親と仲良くなるのがしんどいとかの原因があった。

 

ニュースタートの活動で出会う親御さんには、ひょっとして「いつも」ふつうのお父さんをされているのではないかと思えることが多い。そうならばいざという時、家族の中に問題が起こった時に対応できたのだろうか、窮屈な感じではないのだろうか、と気になってしまう。

※次号に続く

次回のひきこもりをゆるく話す会は、10月31日(土)です!

By , 2015年10月2日 11:38 AM

★ひきこもりをゆるく話す会★

≪日時≫10月31日(土)14:00~16:00(途中からの参加でも大丈夫です)
≪場所≫カフェ・コモンズ
≪申込≫ニュースタート事務局関西まで電話かメールで申込みして下さい。
≪参加≫参加費300円でワンドリンク付き
≪内容≫コーヒーなど飲みながら、ゆるく話ができればと思っています。
ひきこもりや不登校など広く関心がある方ぜひ参加お待ちしています。

ゲームをする人がいたり話をする人がいたり、親の方も一参加者として来られたりと色んな表情がでてきているようです。

初めてのかたもぜひご参加下さい。


imgres

 

Panorama Theme by Themocracy | Login