「近所の目」 長井 潔(9月号分)
前回、家族の中の固定化してしまった文脈が変更されることをきっかけに社会に出た若者の話をした。親子でなくても周囲との固定した人間関係の文脈はある。その関係に息苦しさを感じる場合に、私たちはその文脈を変更できるだろうか。
わが家の斜め向かいに、玄関前に座って道行く人をいつも眺めているおばさんがいる。おばさんはあまりにいつもいるのであいさつがやりにくい。他のご近所さんと話し込んでいることも。自治会ではよく運営に注文を付けるタイプ。わが家に注文が来たこともある。長く伸びすぎた木の枝を切れと言うが、忙しくて放っておくと、ある日勝手に切ってから、切ったよと言ってきた。イラッときたし、あいさつなどもよけいにやりづらくなった。
近所の人とはひきこもりの若者が苦手とする「半知り」の人である。以前にニュースタートに通っていたある若者は、近所の人の視線が気になってなかなか外に出られなかった。時間に遅れて来た時「例のおばさんが外に出ていたからいなくなるまで外に出られなかった」と。彼は強迫的な観念が高じているのか、近所で自分に関するよからぬうわさがおばさんを中心に飛び交っている、なども話していた。
わが家の道路の前で座るおばさんもそういう感じの、私にとって厄介な存在だった。
きっかけは、ある日テレビで放映していた空き巣事件に関するドキュメンタリーだった。いわくどのような手口で入るのか、入りやすい盗みやすい家はどんなものか。それを見ながら私はため息をついた。というのもわが家では飼い猫がよく外に出かけたがる。朝に猫が先に出ていると、ガラス戸を少し開けたままにして出かけることになる。不用心だが解決策はない。
よくこんな不用心な家が無事でいるものだ、と思ってはいたが、今回テレビを観て、やっぱりおかしいとあらためて思った。テレビの事例と比べたらもう、この家は絶対に空き巣に入られているはずの家だ。なにゆえ今まで無事に来ているのか?
テレビ番組で報じられていた空き巣の例はオートロックの高層マンションだった。しかしこの家はそういう地区にはない。近所の目が光っている。おばさんが平日の昼間から私の家の斜め向かいの玄関先に座って道行く人を見ている。ということは、あのおばさんはこの地区、しかも特にわが家をいつも守ってくれていたのだ、だからわが家は10年以上も空き巣に出会わなかったのだ・・・。
おばさんに対する気持ちは自然に変わった。
ある夕方近所まで帰ってくると、おばさんがある男性と口論していた。男性が畑作業のごみを勝手に捨てているのではないかと疑っていた。私は例のごとく聞かないふりをして通り過ぎた。いつもだったらこのようにやりすごすのだが、今回は戻っておばさんに詳しく事情を聞いてみた。あいさつ以外の会話をするのは何年ぶりだろうか。おばさんは一通り心配を話した後で私の家族の近況も聞いたりする。長い立ち話になった。
今後私とおばさんの間にある文脈は「やりにくい近所の人同士」から「やりにくい近所の人をともに懸念する近所仲間」に変わるのではないかと予想している