NPO法人 ニュースタート事務局関西

『372回目の鍋』と『373回目の鍋』(4,5月)

By , 2016年5月23日 10:00 AM

『372回目の鍋』
4月24日。この日、鍋の会にタケノコがやって来ました。
市販の物ではなく、とある山からの贈り物として来たのです。これはもうタケノコ鍋をやるしかないでしょう!
調べてみると和風の白だしの鍋が合いそうでしたが、辛めのキムチ鍋でも合うのでは? という意見も出ました。
冬が終わっても辛い鍋は食べたくなるものなのでしょうか。
自分は辛い物が好きなので大賛成なのですが、たまたま集まった面子が辛いの平気というだけで、もしも嫌いな人がこの場にいたら違う物になっていただろうと思います。
人間にとって「食」は大切な習慣の一つなので、わざわざ嫌いな物を無理して食べる必要はないと思います。
美味しいと思った好きな物を好きなだけ食べて幸せな気分に浸る方が健康的にも良いでしょう。
・・・・・・と、これは昔好き嫌いが多かったが鍋の会で色々と食べていく内にそれがだいぶマシになったという筆者の体験に基づいた答えの一つです。
今の鍋の会には食べる喜び以外にも自ら作る楽しさがあるので、それをもっとたくさんの人たちに伝えていきたいと思っています。
話が別の方向へと行ってしまいましたが・・・・・・そんなこんなで今回作った鍋はタケノコキムチ鍋です。採れたてのタケノコと最近美味いと話題になったキムチ(鍋の会で)がとても良く合っていました。山に赴きタケノコを掘り出して来てくれた方々に感謝の気持ちでいっぱいです。また何か美味しい食材を採って来て下さいね(笑)。
『373回目の鍋』
5月8日。はい、ゴーヤの日です。スーパーで安くたくさん売られていました。
・・・・・・と、そこで何やら他の物まで目に映ってきました。なんと! 今日は母の日らしいですね!
・・・・・・どうやら親不孝者はこんな事も覚えていないようです。ニュースタートスタッフにして二児の母でもある久美子さん本人もわざわざ言っていたので間違いないですね。
そして彼女は何かに憑かれたようにすいとんを作りたいと何度も言っていたので、今日ばかりは逆らわないで合わせる事にしておきました。すいとんと言えば味噌汁のイメージがあったので、だしは和風テイストでいってもらう事に。
そして完成した和風すいとん鍋・・・・・・うん、これは完璧に味噌汁ですね!普通に美味しいんですけど、
鍋である必要は・・・・・・という声もチラホラと。
そこでリベンジに燃えた久美子さんが今度は改良を加えて(バターだったかな?)第二弾を出してきました。
これがすっごく美味しくて、久々に何杯もおかわりしてしまいました。
肝心のすいとんの方はやたら固かったですが、長く浸かって物は程よい固さになっててこれまた良かったです。
まだまだ母の味に勝てる気がしませんが、少しずつでも学んでいけたらなと思いました

♪高槻ジャズストリート♪

By , 2016年5月23日 10:00 AM

今年もGWに高槻の街でジャズストリートが行われ見に行きました。参加した人から一言感想を集めましたのでどうぞ~。
お酒を飲みながら音楽を聞く機会は無いので良かったです。結構酔いました。栗岡大悟
日影に隠れながら聴いてた。ツボイ。
店は入れてよかったです。M
空きっ腹にお酒でフラフラになりながら少なすぎる喫煙場所を探すのは苦労しました。生演奏は迫力があって良かったです。自由人
いつも城跡公園で子どもたちを遊ばせながらステージでの演奏をBGMにして暑さと日差し戦っているような感じです。5月のイベントなのにこの時はいつも真夏のような暑さです。来年こそお酒飲もうかな。(く)mini_160504_16170001

「大切なのは自分のいのちではない」髙橋淳敏

By , 2016年5月22日 10:00 AM

いのちは1番大切なものとして語られる。そうでない人はむしろ珍しいのではないだろうか。例えばお金とか尊厳だとかそのようなことと比べて。もちろん、そんなものとは比べられないのかもしれないし順番をつけないのもわかるが、いのちが一番に大切にされるのは、いのちがなければ何もできないからだろう。オールorナッシング0か100かならば、いのちあることは100で無限の可能性を持っていて、いのちがなければ0を意味するだろう。いのちがなければ何もできない。可能性も何もないとそのように。しかし、近年も人のいのちは軽く扱われている。戦争やテロなんかは日常化して、先週あったテロはすぐに風化し、命はもっぱら数や人種でしか測れないようである。死んだ人の喪に服す間もなく、1000人の命と1人の命を比較しては次から次へと1人の命を切り捨てるというようなことを、何処かで誰かが常に選択しているような感覚を私はもたされている。人の命とお金とを同じ秤にかけられて、結果として多くの人がお金を選択させられてしまう人質事件や、止めることのできない自殺。そんな日常に麻痺してしまって、ニュースを見るたび見ず知らずの人のいのちなんて大したことはないと思わされ、他人のいのちを意識すれば日常生活を送れなくさせられている。多くの人はいのちが大事だと分っていても、コントロールができそうな自分のいのちを守るくらいで、他人のいのちはそれに準じたものだとして大事だと考えているのようである。自分のいのちも大切にできないで、他人のいのちを大切にできるわけがないとか。自分のいのちは自分で守るしかないとか。自己責任だとか。でも、私はそれは違うんじゃないかと思っている。

 

引きこもりの話になると、特に親が「私の方が先に死ぬし、親が死んだらどうするのだ」と訴え、引きこもる子に実際にそのような言葉を投げかけることが多い。私はそのような報告を聞くたびに、引きこもっているあなたの子は生きる死ぬではなくて、どのように生きるかを引きこもって懸命に考えているのではないかと親に答える。その親の訴えに、子の返答があったのは「親が死んだら自分も死ぬ」である。「親が死んだらどうするのだ」という親の子の命に係る心配は、子にとっては脅しにしかなっておらず最悪の答えを引き出すことにしかなっていない。子は引きこもりながらも、この生を賭けられる何かがないかと考えているのに、親は子が生きながらえることしか考えられてはいない。親は自分が死んだ後も子が生きながらえてくれればよくて、そんな親との関係や自分の中で、子はこの世に受けた生を持て余し、抑圧したり内に爆発させたりしている。カフェコモンズにも来てくれたことのあるルポライターの杉山春さんが最近出した新書「家族幻想」(ひきこもりから問う)でうまく表現していると思ったので引用する。《現代の「ひきこもり」は、自分自身と向き合うこととは違う。既存の価値観を内面化し、自己点検を繰り返し、その内面化した価値観に合わない自分自身が社会に漏れ出すことを必死になって防いでいる。そうでなければ社会から居場所を失うと感じ、不安と恐怖を戦っている。だが、どのようにしても漏れ出す生身の自分を隠すことはできない》親が死んだ後の子の生活の心配は、引きこもり問題においては無用である。いかにして、既存の価値観に合わず漏れ出る現在の自分を他人に委ねられるかである。

 

自分のいのちは自分でコントロールできるかに思えて、自分ではコントロールできない。人には寿命があり、他人に傷つけられて寿命を縮める人もあれば、直接的にも間接的にも殺されることがある。自分のいのちをいくら大事にしても、ひとたび戦争が起こればどうなるか分かったものではないし、何にしても自分のいのちを大事にするだけの生き方なんて、いったい何のために生きているのかも分からない。自分のいのちも大切だろうが、私たちが生きていくうえでもっと大切なのは、例えば自分ではない人のいのちなのではないだろうか。だからこそ、私たちは喜び哀しみ怒り楽しみ、人生を豊かにしていくことができるのではないか。もちろん、それらも自分のいのちあってこそではあるが、自分のいのちを大切にできるのはそれも自分ではない誰かなのではないか。まさに親子はそのようではあるが、子どもにとって親は、自分のいのちを大切にしてくれる誰かであっても、自分のいのちよりも大切にできる誰かにはなりえない。それも親は先に死んでしまうわけで、その子のいのちを大切にし続けてくれる誰かにもなりえない。それで、一人でも生きていけるようにと親は子に仕事やお金の話しをするわけだが、本末転倒で一人で生きていけてはいけないのだ。その子を大切に思ってくれる誰かや、その子が大切にしたい誰かがいないと、それは生を粗末にすることに等しい。

 

引きこもる人よ、世間の価値観にあわず漏れ出る自分を持て余しているならば、自分ではない違う人のいのちのために外へ出てきてはみないか。引きこもっていたら分からないだろうが、私たちは多くの死者の上で生きているのだから。でも、生きていればいいこともあるよ。

2016,5,19 髙橋淳敏

特別例会「引きこもる大学生活」を終えて

By , 2016年4月21日 10:00 AM

3月18日(金)17頃~ 同志社大学 烏丸キャンパス 志高館SK265
この日私はみんなから一時間ほど遅れて大学に向かいました。今出川駅について歩いて烏丸キャンパスに向かう時、ものすごく豪華で巨大な同志社大学の建物の横を通ってきました。一人わからない場所で周りの威圧感に、いやだ…帰りたいと思いながら。でもきっとここに通うという事は「こんな立派な大学に通っている」という一つの誇りにもなるんだろうとも感じました。今回この会をさせてもらったのは冨山先生の研究室で、中に入るととても小さなスペースで、本が両脇に並んでいて、よく知っている人と初めての方もいて、そこでやっとほっとしました。冨山先生が言われてましたが、最近の大学は…、同志社大学は…、とひとまとめに言われてしまうけれど、あの大学の○○教授の話は面白い!という風に見てもらいたいと。そんな風に大学を選べるなら、就活する為だけにリクルートスーツを買ってどこにかはわからないけれどとにかく就職しなくてはならない4年間なんていう大学生活ではなくて、あの教授の下で勉強したりしなかったりする中でゆっくり社会を見て(その教授のところにこうして外部の人が関わったりして他の大人の姿も見られるなら)考えられる時間になるのかもしれないと思いました。家にいても大学に行っても限られた大人の姿しか見れないなら、今の若者は大人になることの想像なんてできないのではないだろうか。そしたらどうして働く事に希望なんて持てるだろう。色んな人がいて助け合えて、働いたり、働いてない人もいて、人生なんとかなるもんだと思える体験や出会いこそ、若者には必要だと改めて思いました。ニュースタートの共同生活寮もそんな場所の一つでありたいです。(く)DSCN5753
感想にかえて

義理人情に からめられ
波風たたぬ 忠実は
言語明瞭 意味不明
熟練してこそ 型破り
大本にある 教養は
一体全体 どこいった?
↑参加してくれた元寮生のMDくん。今でもこの周辺で暮らして働いたりしながら、ニュースタートに関わる人と一緒に面白い事していこうと考えてくれている人。

特別例会の報告「引きこもりから見た普通の生活」 ~普通はつらいよ~

By , 2016年4月20日 10:00 AM

大学を出て正社員になり、30歳までに結婚して子供を作るはずだったのに…、という見出しから始まりました。今回の企画を担当した福神さんと長井さんが当日の進行もしました。残念ながら初参加の方は少なかったですが寮生も来てくれたので勉強会に重点を置いた会になりました。今回の特別例会を受け感じた事は参加者の「普通」の見解は様々で一概に引きこもりに限った話ではないと思いました。誰だって弱点があり不得意な事もあり失敗だってする。家族や世間の情報でいつの間にか普通の水準を決めてしまい、注意されたり反省を繰り返す度に劣っていると認識してしまうのではないかなと。それと同時に社会では学歴や資格などの価値観が過剰に優遇され続けている。そんな社会からの期待に答え続けていてはもはや普通の人間ではなく高性能人間の域に達しているのではないかと思う。普通ってもっと普通な事じゃないでしょうか。ちなみに終盤、参加者全員に自分が普通かどうか問いに挙手してもらった結果大半の方は普通じゃないと自分で感じているという答えでした。shinsyakaijin_run_man2wedding_couple

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