NPO法人 ニュースタート事務局関西

☆映画鑑賞会「家族はつらいよ」☆

By , 2017年7月18日 10:00 AM

6月23日のオブスペレクは、映画鑑賞会でした。田中くんセレクトの3本の中から寮生のM君に選んでもらって「家族はつらいよ」を見ました。
「男はつらいよ」も過去の映画鑑賞会で見ましたが、この「~はつらいよ」というのは、「色んな面倒な事があってごたごたしてて本当に大変だよと言いながらその状況をとても大切に感じていてちょっと自慢してる」ということなんだなぁと改めて感じました。私の人生において考えるなら「古民家を自分達でリフォームはつらいよ」ですね(笑)毎日作業のあと疲れきって沈み込むように寝て、起きたら大量のおにぎりを握って、作業服と化した汚れていい服を着て、鏡を見る時間もなく現場に向い、8時から18時頃まで、気が狂ったように家作りの作業をして、トイレ(近くの公園のトイレを貸していただいてました。)へ向かう道のりが休憩でもあり、涙が勝手に流れてくる(もう限界か?本当にもう少しも動けないのか?…いや、まだいける、私はまだやれる!と自問自答しながら、笑)瞬間でもありました。そんな怒涛の約4カ月は、私にとっては「~はつらいよ」状態で、人生においても大切な期間で、たくさんの方に助けてもらったり、いろんな刺激を受けて今まで知らなかった自分に出会えたりもしました。みんなに大きな声で自慢したい体験なのです。そしてこの映画もそんなどたばたの、でも誇らしくもある家族の話なんだなぁと思いました。(く)

『401回目の鍋』(7月)

By , 2017年7月17日 10:00 AM

『401回目の鍋』
7月9日。だんだんと暑くなってきて、そろそろ「この暑いのにまた鍋を食べるのか」という声がどこかから聞こえてきそうな気がします。
世の中では「冷やし中華始めました」なんて文言を暑くなる前から見るようになりましたが、それならばこちらも「冷やし鍋始めました」のスタンスでチャレンジしてみても良いのではないだろうか?
毎度毎度同じような鍋ばかり作ってもさすがに飽きてくるので、ここらでレパートリーを増やすという名目も立てて新しい鍋の道を切り開いてみようじゃないか、という話に。
食材はナスやトマト、きゅうりなどと冷しゃぶ用の豚肉、せっかくなのでそうめんも入れる事になったのですが……そしたら、ものの見事にそうめんになってしまいました(笑)
具だくさんなので豪華なそうめんと言ったところでしょうか。食べた人みんなが口々に「これはそうめんだ」と口にしておりました。食材の中では冷しゃぶとナスを湯に通し、他は生で入れたのですが、冷やし鍋と言えどもまずはちゃんと他の食材にも火を通して、そこから一気に氷で冷やして味を馴染ませた方が良かったかもしれません。後、そうめんは締めの段階で入れても良かったのかも?
次にやる時の課題がちゃんと出てきたので良しとしましょう。
そうめんだと言いつつもみんな結構な勢いで食べていましたし、美味しい物なら万々歳だという事でしょうか(自分も前日の夕食がそうめんだったにも関わらずたくさん食べてました)。
自己紹介では二日前に七夕があったという事で、かつての願い事や夢、もしくは現在の願い事や夢をテーマにして話してもらいました。叶ったかどうかを聞くのは野暮かもしれませんが、それを笑って話せるようになったのなら、それは充分に立派な願いや夢であったのだと自分は思います。
願い事は自分で叶えるものではなく、誰かに叶えてもらうもの。夢は自分の道しるべとなり、追いかけ続ける事こそに意味がある。たとえ叶っても、叶わなくても、そこで終わるという事はないのです。
ひょっとしたら、鍋の会も誰かの願いでずっと続いているのかもしれませんね。つぼい。

8月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2017年7月16日 10:00 AM

8月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

8月19日(土) 14時から (223回定例会)

場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室

当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。

参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら

※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。

【高槻市青少年センターと共催で行っています】

定例会&父母会一言報告コーナー

By , 2017年7月16日 10:00 AM

定例会報告

6月17日(土)に10名参加(内御家族さん4組)でした。
数年ぶりに定例会に参加されたという方が来られました。以前ニュースタートに来られてからも色々と苦労されたようですがまた参加できて良かったと話してくれました。後日には鍋の会にも参加され新たな出会いや会話を楽しんでいた様子でした。改めて長い歴史のある活動が今も続いているんだと感じました。

父母会報告

7月8日(土)に6名参加(内親御さん3組)でした。
引きこもり問題について話をするなかで親御さん同士が面識を持てて良い交流になったと思います。各家庭で個々に事情はあると思いますが意見交換や質問する事で得れる事もあるだろうし解決へのヒントにもなるかもしれません。来月は第一土曜の5日に予定していますのでよろしくお願いします。

「考えることを規制しない」髙橋淳敏

By , 2017年7月14日 2:09 PM

 許しがたい状況は、引きこもっていることではなくて、引きこもらされていることにある。引きこもらされているとはどういうことだと、理解に戸惑う人が多い。「開けられないドアの内側に監禁されているのでもなければ、エアコンパソコンもあって餓死せず生きているのは、恵まれているだろう。それでいて被害を受けているなんて言い方はおかしいではないか。ほら、本人だって働きたくない外に出たくないという態度じゃないか、引きこもりの問題は自己責任以外ではないし、責任転嫁したところで外に出てくるようでもない」と。引きこもりや不登校などが問題とされるようになった20年以上前から、そういった理解で変わらずにきている。昔の方が引きこもることは理解できないと自覚していたので、周りはまだ関心を持っていたように思うが。そこで、就労支援などで納税者や消費者として育て上げようとしてみたり、病気や障害者として社会から隔離されることが問題とならないように管理したり、使い古された制度に当てはめるため引きこもりの解釈をニートや発達障害などと拡張してきたようなところがある。でもそれは社会のための引きこもり支援であったかもしれないが、引きこもりのための支援ではなかったわけだ。実際に引きこもる人も減っているようでもなければ、社会が良くもなってはいない。あなたたち世代が引きこもっていたから社会が良くならないのだと、鶏か卵かのような文句も聞こえてきているが、フリーターが増えたのはフリーターのせいみたいな話しはもともとあって、とても筋違いである。多くの人が引きこもったり不登校になったりするのはなぜだったのか、一人一人違いはあってもこうした状況が多く出現したことは社会に対する問題提起にはなっていたはずだった。しかし、対処療法的な対応ばかりでこの社会はちゃんと引きこもり問題に向き合ってこなかったのではないか。そして、そこには今の社会のあり方を問う大きな問題提起があったのではなかったかと考える。社会のために引きこもりが社会復帰するのではなくて、引きこもりにとっての社会を考えることが今の社会のためになったと思うのだ。引きこもっているのは本人の意思で、そうでなければ病気か障害だと、この問題は行き詰まっているようだが、繰り返しになるが引きこもる理由はそうではない。国や社会のために私たちがあるのではなく、私たちのために国や社会がある。そして、私たちは引きこもらされているのだ。引きこもり問題を契機に視点を180度変えて見る必要があるのではないか。

 想像するに如何ともしがたい状況は、考える自由がなく、世の中の規範や世間体、過去の経験の一面的な場面に縛られ、一人孤独にさせられていることにある。学校や会社なんかで、縛りがあって自由に考えられない時は多々あるし、学問なんかで縛りの中で考え詰めることはあるが、それは孤独ではなかったり、思考は先に開かれていたりでここで想像しているものとは違う。引きこもる場合は、先の不安に思考は閉じられ、相互の交流がない中では現在にも閉じられ、新たな体験のなさから過去にも思考は閉じられている。学校や会社なんかの、管理や監視の中で目の前のことに忙しくゆっくり物事を考えることができないので1日2日部屋に引きこもるのは、休養にもなり考える自由を持てることであるが、何年も引きこもるというのはそういうことではない。私は人が孤立していて思考に閉じられていてあらゆる規制を自らにかけて自由のない状況になっているのが、なぜか耐えがたく思ってしまう。たぶん、自身がそのような状況によく陥っていて、いつまでも開かれずしんどさが続くことへの憐れみを勝手にもっているのかもしれない。私の友人の社会学者は、思考は一人でするものではなく、複数人でするものだとどっかで言っていた。彼との会話を思い出し、妙にその言葉に納得させられたのだった。それまでは思考は一人でするものだと、そうしていなくともそのような前提があった。でも、今まで一人で考えていて何か考えられたことがあっただろうか?一人で考えることができただろうか?人と話したり、本を読んだり、対話を想定した(それを一人で考えると言っているのだろう)ときぐらいではないか、考えることができるのは。だとしたら、引きこもらされているのは、一人で考えなさいと言われているようなものなのだ。引きこもっている人は、親に言ってもわからないし、社会も自分の存在を理解してはくれないだろうと思っている。そして、それは本当のことでもあって、1人ではあるところまでで逡巡してしまう。私はそこに、他者の存在が必要であるとずっと考えてきたのだった。発言にはタブーはあっても、考えることにタブーはない。思考とはそのようなもので、他者との思考の中では自分が考えることに規制をかけていたという事実に気がつくことが大事なのかもしれない。引きこもっている人が、「自分がもともと何者かでなくては人とは関われない」と自らに規制をかけていることがあるように。1人で考えてしまっていて、知らずに規制をかけていたことに気づくことは大事なのだ。

 この数年、国は「岩盤規制を突破する」といい教育においても均一に産業化しながら、国民生活には新たな規制を乱発している。外からのテロリストが怖いのではなくて、官製バブルでもってしてもグローバル経済にしがみつかなくてはならない状況で、そういった経済政策に対応できないであろう国民生活が怖いのだ。具体的に言えば、ずっと言われている格差であるが、その不満が表面化しないように規制をかけ続けている。私たちの生活こそが統治する国にとってはテロなのだ。そして行政はその危機管理に勤しんでいるように見える。今回のテロなど準備罪は自由を守らなければならなかった二人の思考に国が規制をかけたことになる。グローバル経済があてがったセルの中に国民を引きこもらせようと国家は勧めているのだろう。個々の思考はまだ規制されてはいないが、そんな規制が表面化する世の中で、引きこもりの思考が規制を突破しどこにたどりつくか、それくらいしか今の社会で期待できることはないだろう。先の社会学者はかつてこの通信の中ではこうも言った。引きこもりが社会復帰するのではなく、社会の方こそ社会復帰すべきだと。

2017,7,14髙橋淳敏

Panorama Theme by Themocracy | Login