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「考えることを規制しない」髙橋淳敏

By , 2017年7月14日 2:09 PM

 許しがたい状況は、引きこもっていることではなくて、引きこもらされていることにある。引きこもらされているとはどういうことだと、理解に戸惑う人が多い。「開けられないドアの内側に監禁されているのでもなければ、エアコンパソコンもあって餓死せず生きているのは、恵まれているだろう。それでいて被害を受けているなんて言い方はおかしいではないか。ほら、本人だって働きたくない外に出たくないという態度じゃないか、引きこもりの問題は自己責任以外ではないし、責任転嫁したところで外に出てくるようでもない」と。引きこもりや不登校などが問題とされるようになった20年以上前から、そういった理解で変わらずにきている。昔の方が引きこもることは理解できないと自覚していたので、周りはまだ関心を持っていたように思うが。そこで、就労支援などで納税者や消費者として育て上げようとしてみたり、病気や障害者として社会から隔離されることが問題とならないように管理したり、使い古された制度に当てはめるため引きこもりの解釈をニートや発達障害などと拡張してきたようなところがある。でもそれは社会のための引きこもり支援であったかもしれないが、引きこもりのための支援ではなかったわけだ。実際に引きこもる人も減っているようでもなければ、社会が良くもなってはいない。あなたたち世代が引きこもっていたから社会が良くならないのだと、鶏か卵かのような文句も聞こえてきているが、フリーターが増えたのはフリーターのせいみたいな話しはもともとあって、とても筋違いである。多くの人が引きこもったり不登校になったりするのはなぜだったのか、一人一人違いはあってもこうした状況が多く出現したことは社会に対する問題提起にはなっていたはずだった。しかし、対処療法的な対応ばかりでこの社会はちゃんと引きこもり問題に向き合ってこなかったのではないか。そして、そこには今の社会のあり方を問う大きな問題提起があったのではなかったかと考える。社会のために引きこもりが社会復帰するのではなくて、引きこもりにとっての社会を考えることが今の社会のためになったと思うのだ。引きこもっているのは本人の意思で、そうでなければ病気か障害だと、この問題は行き詰まっているようだが、繰り返しになるが引きこもる理由はそうではない。国や社会のために私たちがあるのではなく、私たちのために国や社会がある。そして、私たちは引きこもらされているのだ。引きこもり問題を契機に視点を180度変えて見る必要があるのではないか。

 想像するに如何ともしがたい状況は、考える自由がなく、世の中の規範や世間体、過去の経験の一面的な場面に縛られ、一人孤独にさせられていることにある。学校や会社なんかで、縛りがあって自由に考えられない時は多々あるし、学問なんかで縛りの中で考え詰めることはあるが、それは孤独ではなかったり、思考は先に開かれていたりでここで想像しているものとは違う。引きこもる場合は、先の不安に思考は閉じられ、相互の交流がない中では現在にも閉じられ、新たな体験のなさから過去にも思考は閉じられている。学校や会社なんかの、管理や監視の中で目の前のことに忙しくゆっくり物事を考えることができないので1日2日部屋に引きこもるのは、休養にもなり考える自由を持てることであるが、何年も引きこもるというのはそういうことではない。私は人が孤立していて思考に閉じられていてあらゆる規制を自らにかけて自由のない状況になっているのが、なぜか耐えがたく思ってしまう。たぶん、自身がそのような状況によく陥っていて、いつまでも開かれずしんどさが続くことへの憐れみを勝手にもっているのかもしれない。私の友人の社会学者は、思考は一人でするものではなく、複数人でするものだとどっかで言っていた。彼との会話を思い出し、妙にその言葉に納得させられたのだった。それまでは思考は一人でするものだと、そうしていなくともそのような前提があった。でも、今まで一人で考えていて何か考えられたことがあっただろうか?一人で考えることができただろうか?人と話したり、本を読んだり、対話を想定した(それを一人で考えると言っているのだろう)ときぐらいではないか、考えることができるのは。だとしたら、引きこもらされているのは、一人で考えなさいと言われているようなものなのだ。引きこもっている人は、親に言ってもわからないし、社会も自分の存在を理解してはくれないだろうと思っている。そして、それは本当のことでもあって、1人ではあるところまでで逡巡してしまう。私はそこに、他者の存在が必要であるとずっと考えてきたのだった。発言にはタブーはあっても、考えることにタブーはない。思考とはそのようなもので、他者との思考の中では自分が考えることに規制をかけていたという事実に気がつくことが大事なのかもしれない。引きこもっている人が、「自分がもともと何者かでなくては人とは関われない」と自らに規制をかけていることがあるように。1人で考えてしまっていて、知らずに規制をかけていたことに気づくことは大事なのだ。

 この数年、国は「岩盤規制を突破する」といい教育においても均一に産業化しながら、国民生活には新たな規制を乱発している。外からのテロリストが怖いのではなくて、官製バブルでもってしてもグローバル経済にしがみつかなくてはならない状況で、そういった経済政策に対応できないであろう国民生活が怖いのだ。具体的に言えば、ずっと言われている格差であるが、その不満が表面化しないように規制をかけ続けている。私たちの生活こそが統治する国にとってはテロなのだ。そして行政はその危機管理に勤しんでいるように見える。今回のテロなど準備罪は自由を守らなければならなかった二人の思考に国が規制をかけたことになる。グローバル経済があてがったセルの中に国民を引きこもらせようと国家は勧めているのだろう。個々の思考はまだ規制されてはいないが、そんな規制が表面化する世の中で、引きこもりの思考が規制を突破しどこにたどりつくか、それくらいしか今の社会で期待できることはないだろう。先の社会学者はかつてこの通信の中ではこうも言った。引きこもりが社会復帰するのではなく、社会の方こそ社会復帰すべきだと。

2017,7,14髙橋淳敏

4 Responses to “「考えることを規制しない」髙橋淳敏”

  1. おほほ太郎 より:

    たぶんにNSも対症療法だと思うが。
    あと酒飲み過ぎ。
    失われた青春を取り戻すがごとく、わいわい酔いどれもいいが、期限があると思う。

  2. 高橋 より:

    わいわい。

  3. おほほ太郎 より:

    わいわいするのは苦手な社会不適応者も多いでしょう。
    改めて思ったのだけれど、文章が長い、改行が少なく読みづらい、回りくどくて、結局何を言いたいのか分からない。
    高学歴引きこもりも多いらしいが、反対に学校に行ってない引きこもりも多いと思う。
    出来れば、中卒にも分かるように書いて欲しい。

    • 高橋 より:

      文章を読んでいただいてありがたく思います。
      できるだけ端折らないように書くことにします。
      高校に行っていない人もいます。
      わいわいが苦手だという人がたくさんいるのは知っています。

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