「コミュニケーションという障害~後編~」高橋淳敏
さて、戦争でアメリカに完膚なきまでにして負ける。その負けたことを悔しがるならまだしも、負けたことを被害や罰として振り返るくらいで、少しの戦犯が戦争の延長上に裁かれた程度でもってして、国として戦争責任をとることができなかった。日本は差別されることで、その当てつけに他国や他民族を差別し、国家なるモノが覚醒し生まれた普遍の加害国であり、植民者としての反省がないままに戦後も始まるのであった。アメリカ統治によるアメリカの「言うことを聞く」コミュニケーションが再び棘を抜かれて逆輸入される。そして、責任なき国家は西側連合軍として、今度は経済戦争に突入する。この時期、学生運動など旧帝国大学で学んだようなエリート学生が主導する新たなコミュニケーションによる抵抗はあったが、都市に出てきてはインテリゲンチャが慣れの果て、多くはコーポレーション(カンパニー)に人材として買われていくことになる。いわゆる集団就職であり、高度経済成長期である。注目すべきはこの時期は、個人の欲望が増幅するようにして、その国民をなぞっていけば国家が作れてしまうという稀有な時代であった。それでできたのが一億総中流社会であって、哲学も思想も政治も必要なければ、市場がほぼ全ての世界となる。ソ連も崩壊しワンサイドゲームとなるが、やれ自由や豊かさとは何か。一方で民衆は新たな時代であると植民者なのか被植民者なのかマスコミュニケーションに惚けてしまい加害体験を過去のモノにすると、地域コミュニティーは解体され、市民としてのコミュニケーションはコーポレーションや核家族の中へと閉ざされた。ストライキやサボタージュ、デモに法廷闘争、家庭内暴力や自殺、犯罪、非行など民衆のコミュニケーションは散発はするが運動せず、個別のモノとして表れては消えていく。帰還兵や傷病兵の加害経験は、超法規的民衆の正義として暴かれるコトはなく個人に隠蔽され、戦後社会によって癒されるコトもなく消されたのであった。
それで、ようやく私が初めて「コミュニケーション」という言葉を聞いただろう記憶がやってくる。定かでもないが、始めは、1980年代に会社の上司が、何を考えているか分からないような新入社員と上手くやっていくにはコミュニケーションが必要だといったニュアンスで知ったように思う。それは軍服のほころびを見つけたくらいのコトであった。その後はあまり理解のできないコミュニケーションを茶化して、飲みニケーションという言葉が流行した記憶はある。いずれにしても、このころ流通していたコミュニケーションは、当時「新人類」だったか、よく理解できない若者に対して、大人の方が若者を理解するために必要なコトであった。当時も今と同様に若者とコミュニケーションができないことが問題であったが、今とは真逆に当時は大人や社会の方が若者に歩み寄るべきコトとしてコミュニケーションはあった。さらには、コミュニケーションはマジョリティーがマイノリティーを理解するため必要であるという民主主義の理解のタメにもあったはずである。一方、マジョリティーからコミュニケーションを強要する形でのマスコミュニケーションや各種ハラスメントは問題であったが、子どもや若者にコミュニケーションの責任を押しつける今とはまるで逆ではあった。親子のコミュニケーションなんて言い方は、まだ水臭いモノだと思われていただろうし、親が子にそこまでして寄り添わなくてはならないと考えられてはいなかった。しかし、登校拒否や引きこもるなどの行為が表れるや否や、親子のコミュニケーションが不足していると指摘されては、コミュニケーションは親の責任とされるのであった。それが現在は本人の発達障害のセイなどとされている。当時まだ子どもであった私にとってコミュニケーションは、大人がしかけてくる面倒なモノだが、社会人の嗜み程度の小さなコトで、被差別者との認識もなければ、目の敵にしなくてはならないといったモノではなかった。さて、国家や権力に抗うこともできたコミュニケーションなるコトが、個人にとっての障害へと変わっていったのはどのようにしてなのか。
日本の戦後資本主義社会において、大人が若者や子どもを理解するためのコミュニケーションであったコトが、若者や子どもが社会に順応するためのコミュニケーション能力などとしてモノに変化したのには明確な時期がある。このコトは、引きこもり問題においてもその発生源の一つとしてよくとり挙げているが、就職氷河期がその境目である。市場経済において、労働力が売り手市場から買い手市場へと180度転換した時期である。勝ち組負け組、格差社会と言われ、このギャップはなかなかに受け入れがたかった。子どもや若者、女性や障害者やマイノリティーのために出現したかにもみえたコミュニケーションが、この時期を境にその本性をあらわし、社会的に立場の弱い側が獲得しなければならない能力、翻っては身につけなければ障害者とされるモノへと変化した。会社や社会、家族を維持していくタメに、若者が労働力として不必要になっただけでなく、コストやリスクとして管理されるモノになった。コミュニティーを解体し、都市や郊外へと流入した労働者・市民は、コーポレーションなる会社共同体に福利厚生や福祉や年金まで人生のすべてを捧げたワケだが、その会社なるコトはバブル経済で他国や未来をも、さんざんに食い散らかした挙句、新たな若者を受け入れはせず、排除したのだ。ここにおいて、薄っすらと繋がっていたかにみえたコミュニケーションというか、その可能性はコトとしては潰えた。よく経済成長時期との「競争」を比較をされるが、一方は植民国の中で同じように豊かになっていく協力ゲームの中での競争、一方はバトルロワイヤルよろしく植民国内の被差別者同士が殺し合いをする出口のない競争を同じ経済として比較しても意味はない。加害を自覚できなかった国の市民によるコーポレーションの限界はそこにあったワケだが、そのコトを自己責任化した普通の若者や子どもたちが資本の一兵卒として身につけなければならなかったのが、学歴や資格や見た目や適応力や従順さなどのもはやコミュニケーションとは言えないコミュニケーション能力と言われるモノである。そして、「コミュニケーション」は人にとって障害となったのだ。
では民衆のコミュニケーションはどこにいったのか?コミュニケーションはモノになって「障害」や「能力」や「トラウマ」や「症状」として、個人に蓄積されてきた。コミュニケーションはモノにされ押しつけられたとしても、それが解放されるならば、国家や資本にも対抗しうるコトへと変わるだろう。障害者やマイノリティー、無職者や女性、非正規労働者にフリーター、単身者、そして抵抗のコミュニケーションは引きこもるという行為によって、日々閉じ込められている。個人に押しつけられたモノとしてのコミュニケーションを協力して解々き、生きながらえる「生」ではなく、コトとして抗う「生」としてのコミュニケーションを私たちは経験している。それは障害者として差別されるモノでもなければ、植民者市民としての権利を主張するモノでもない。個人の「自立」ではなく、ならず者たちの新たな「自治」によって、成長に価値をおかない抵抗のコミュニケーションは日々発酵されていくだろう。私たちはその運動を「ニュー自治」という造語によって表そうとしている。
2021年6月11日 高橋淳敏