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直言曲言 第335回 自由

By , 2013年10月22日 2:01 PM

20世紀は経済システムをめぐる2つの潮流が攻防を繰り返し、激しい攻防が「冷戦」と言われる対立をもたらした。20世紀初頭、ロシアでツアーリズムを打倒した社会主義は英米を中心とした帝国主義勢力と激しく対立し、第2次大戦後東西冷戦として世界を二分する戦いを続けた。20世紀の最期の10年を迎える頃ソビエトロシア共産党は崩壊し、東ヨーロッパ諸国もそれに連動するように体制崩壊を余儀なくされた。ロシア共産党の崩壊は共産党独裁に対する西側諸国の情報戦による敗北であったが、それに対する有効な反撃も出来ないまま21世紀を迎えた。西側の資本主義諸国はこれを、社会主義対資本主義の優劣の問題として喧伝した。
資本主義が持っていた資本による労働の抑圧とか搾取とかの負の側面も、社会主義の敗北によってすべてが許容されるかのような風潮が世界を覆うかのようになった。対立する陣営の敗北によって、資本主義はより自由にふるまうようになり、資本と資本、国家と国家の争いもより過酷になった。こうした競争の是認が若者たちの教育の世界においてもとりいれられるようになり、人と人との間の不信感が広がるようになった。この人間不信が、対人恐怖や社会不信となり20世紀末において「引きこもり」を増殖させることになった。
引きこもりの背景を探ればこうした歴史的変化や心理的な蓄積があるが、親が心配するのは、社会的な交流に参加せず、職業に就こうとしないことである。政府としても若者が就労しないことによって将来の税収や社会保障費の不安が増大する。そこで、厚生労働省から委託を受けた日本生産性本部などが若者を対象に「自立支援塾」などの制度を設け、就労支援などを行おうとしたが、これは「引きこもり支援」のNPOの活動を模倣したもので、引きこもりの心理的側面を理解せず、機械的に就労促進をしようとしただけでほとんど成果を上げなかったようだ。多くの引きこもり支援団体が入寮による共同生活によって友達作りを進めようとしているが、これも親による「受益者負担」として引きこもりの若者の大きな経済的負担となっている。このことに留意をしたのは良いが、「自立支援塾成度」は一部のNPOや民間団体に助成金を出すことによって、3ヶ月の入寮を支援し、その間に就労のための技術指導を行おうとしたのである。私たちから見れば、まさに引きこもりとNEET(在学中でもなく未就労・未研修の若者)の混同であり、若者が就労できていないのを「職業研修を受けていない所為」とする「悪意の理解」であり、3ケ月の研修だけで就労出来るはずはないのである。
民主党政権へのはかない期待や幻想は破れたが続いて登場した自民党政権はさらにひどいものであった。「アベノミックス」と称して「景気浮揚」への期待をあおる中で「国家戦略特区」なる言葉を聞いた。「特区」とは戦略上、政策の例外として何かを認めようとするものであるが、今回は「企業誘致」の為に例外を認め特約により労働者を解雇しやすくしようとするものであるらしい。社会主義は労働者の権利を守ろうとする政権であるが資本主義も労働者の権利を一定程度尊重しなければ、革命による政権転覆などの危険性があるため労働者の権利などを最低限認めてきた。しかし社会主義政権の崩壊によって労働者階級の権利が弱体化すると、労働者の基本的権利はますます軽視されるようになった。資本主義国において資本が自らを戒めるように、自粛してきた労働者の最低限の権利尊重だが最早、資本主義に対抗するイデオロギーは地球上から消滅したかのごとく我が物顔で「自由気まま」にふるまう「新自由主義」が怪獣のように現れている。イデオロギーの対立以前に、人間として戒められてきた倫理が、今や破戒を咎める神も消滅したかのごとく際限なき自由を謳歌しようとしている。
働くことは本来、人の権利であり、義務であった。だからこそイデオロギーや立場を超えて尊重されるべき人間の本質がそこにあった。際限なき「自由」とは彼らが考える「神」に許された自由であり、だから人間的な本質などどこかに蹴散らかされてしまうのだろうか。引きこもる若者たちは人間たちの所業に恐怖を抱いている。他人を押しのけて、自分の権利を主張することなどできない。21世紀を迎えても、就職氷河期の連続で、職を手に入れられない若者が続々と続いている。偶に、求人があり、勇気を振り絞って面接に出かけても、不利な労働条件を押し付けられる。質問や疑問を投げかければ「不満があるのなら結構です。就職希望者はいくらでもいるのです」と切り捨てられる。「アベノミックス」なる「景気浮揚策」で唯一淡い期待を描いたのが、若者たちの就職環境の改善だが、早くも「国家戦略特区」なる伏線で働く者たちの解雇を濫用させようとしている。これでは若者たちが引きこもりから脱して、安心して働けるような時代が簡単に来るとは思えない。若者たちよ「かたくなに、働くことを拒否して、引きこもり続けよ」と言うしかないか。
「大きな政府」「小さな政府」という議論を聞いたことがあるだろう。何のことだろう。「大きな政府」とは多くの税金を徴収し、多くの官吏を雇用し、行政の多くの分野で政府の権限が大きな政府を指す。「小さな政府」とはその反対である。つまり大きな政府とは政府の権力が強く、小さな政府とは民間の権力が強いことになる。素直に考えれば、政府の権力など大きくない方が良いと考えられるが、そうではない。「民間」とは「庶民」のことを指すのではない。「政府」の代行をするのだから「企業」「資本」を意味する。「大きな政府」は税金を多く集める政府が「民間資本」「企業」の活動を規制する。小さな政府になれば政府の権限が制限され、「企業」「資本」は自由に「やりたい放題」となる。新自由主義とはそのような「やりたい放題」の自由が認められることである。アメリカでは州により異なるが銃の所有が認められているところが多く、時折民間人の銃の乱射によって、多くの人が死傷する事件が発生する。日本では暴力団同士の抗争でもない限り、このような事件は考えられなくてアメリカ政府は「何故、銃の規制を行わないのか」と疑問に思う。合衆国政府もその都度「規制法案」を議会にかけようとするが、この「銃規制」に猛反対する勢力が必ずいる。それが「小さな政府」を主張する共和党支持者たちで、彼らは銃の自由所持で「自分たちの安全は自分で守る」と主張している。アメリカ人には建国や独立を通じて銃により獲得してきた自由の記憶があるだろうが、逆に武力の威嚇を受けてきた国や民族の悲哀は通じないのだろう。過去の半世紀アメリカに追随してきた日本にもアメリカ型の自由を信奉する勢力が蔓延してくるだろう。

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