脱原発と引きこもり
障害を個人の中に顕在化
引きこもりの問題は、ご家族や本人が悩んでおられることを解決しようとすれば、相当な労力と時間が必要となる。ご家族は本人を励ましたり、説得してみたり、優しくしたり、待ってみたりしている。本人たちは自らを鼓舞したり、自己啓発したり、やりたくないことの一切をやめてみたり、やる気が出るまで待ってみたりしている。そのようなことをやっていないという方もいるだろうが、これら思いつく限りのことを、問題を押し付けられている家族や本人たちは既にやっていて、それでも引きこもりの問題は解決しないのである。
解決したといっても、アルバイトができるようになったとか、病院に行けるようになったとかで、それができた後に引きこもるようになったという話も無数にある。ニュースタート事務局関西は「友達」と言われるような関係を、その解決の大きなカギと考えているが、アルバイト先の職場や病院のような場所は、友人ができるには難しい場所である。ニートだとか発達障害だと言われても、居場所はなかった。
どのような社会でも仕事を得られる人もいれば仕事を得られない人もいる。多くの人に働いてもらって多くの税収を得たいのも共通しているだろうが、今の社会は大きな企業を守って、そこから安定的な税収を得ようとして、結果労働環境は日々悪くなっている。働けない人が増えたのはニートと言われた若者のせいであるわけがなく、そのような労働環境であり社会構造を省みることなく、就労支援をしたところで引きこもりの問題はいつまでも解決はしない。そのような社会をろくに知らない精神科医は、患者の生活と向き合う時間もないまま、治療もできないのに、未熟な情にほだされて発達障害を個人の中に顕在化させてしまった。障害を作ったのは社会の方であるので、損害賠償というか障害年金をもらう権利はあると思うが、まさか医者という人は薬で治すことができると考えているのだろうか?挙げ句の果てに、今までは統合失調症に間違われていたものが、発達障害と診断するようになって減薬できるようになったと自らの職務怠慢を言い訳に、発達障害を定義するわけだから呆れるしかない。以上のようなことは、よくする話だが、とどのつまり大企業しか頼れず、精神科医にしか押し付けられないこのような社会で友人を作るのは難しいのであろう。
あなたたちの世代に同じ苦労はさせたくない
私は小さいころはお茶の水博士のような科学者になりたいと思っていた時期もあって、鉄腕アトム、その後は原子力の圧倒的なエネルギーに憧れもした。だから、エネルギー資源が少ないと言われた日本で、大きなエネルギーを産み出せる原子力が「明るい未来」としてもてはやされ、しなくてはならない過酷な労働から解放されて、社会は豊かになっていくのだという雰囲気はよく知っているつもりだ。原子力はそのシンボルであった。私の親たちの世代は、戦後に復興していくのはいろいろ大変だったけど、豊かになったし永遠にあふれ出てくるエネルギーもあるわけだから、あなたたちの世代は好きなことを仕事にすればいいのよと言わんばかりであった。それも嘘ではないと思っていたし、その時のことを思うとなぜ今こんなに生きづらいのか不思議でならない感覚もある。
システムを守り抜くための労働
生きづらいのは、東日本大震災で原発が止まって、生活していくのに電気エネルギーが不足しているからではない。引きこもってもいられないほど、助けを求めている人がいて、寝る暇もなく忙しく働かなくてはならないからでもない。むしろ、メルトダウンした原発の収束作業のような労働や、それに似通った建造物やシステムを守り抜くための労働ばかりで、いったいそれがなんのためになっているのか分からないような社会的な役割しかないからだと、私はずっと言い続けている。メルトダウンした原発を収束させる労働だって、十分誰かのためにはなっているではないかと言う人はいるだろうが、それは原発を今後いっさいやめるという前提のうえならば、誇るべき仕事となるかもしれないが、今行われているのは、他に仕事があるわけでもなく、命をかけた後片付けであって、自らやりたくてその仕事を望んでいるのではない。「収束宣言」以後は、収束作業(収束作業ではなくて何作業というのだろう)の賃金は下がり、それでも多くの人がその作業を行っているというのだから切ない。
私たちが必要なエネルギーとは
ちょっと昔は裏山から木を切ってきて、それを燃やすくらいのエネルギーで生活していた。東京や大阪はその昔には戻れないし、一昔とんで前の生活に戻ればいいのでないが、私たちが生活に必要なエネルギーや、その生み出し方は今回の一件だけでも十分に考え直す必要があるだろう。それを何事もなかったように過去の遺産を維持する仕事でなくて、その事実を受け入れたうえでの「仕事」をすぐにでも開始すべきだと思うが、目の上のたんこぶのように原発はまだ生かされようとしている。原子力を夢見た日々を堕落した姿として残すためにも、原子力発電所を恥の産物とし反省を促す意味では、残してもよいとも思うが。
2013年10月17日 高橋 淳敏