直言曲言 第316回 「自殺」
両親やわが子など肉親の死は人間の生涯の中で最も悲しいものであろう。67歳である私は、既に父も母もなくしてしまっている。子どもはいずれも成人し、孫たちも乳児期を無事に過ごし、いわば残る人生において肉親に先立たれるという心配はほぼない。万が一あるとすれば、離れて暮らす弟妹や妻であるが、幸い妻は私よりも5才年下であり、今のところ健康である。幸せなことに、残る人生で悲嘆に遭遇しなくても済みそうである。
「肉親の死」が悲しいのは当たり前であるが、死なれてしまうと、心に受け入れざるを得ない。死は誰にでも一度はやって来る。枕元でいつまでも泣いてばかりはいられない。親が死んだ後の手続きもいろいろある。葬式の用意もしなければならない。死んでからよりも、死ぬ前の方が「悲しい」と言える。病気で弱って来ると、親の死の恐怖が襲ってくる。「自殺」でなくても予告・予知された死ほど恐ろしいものはない。引きこもりのプロセスの中でも、この恐ろしい予告がなされる。
肉親にとって「恐ろしい」ことだとわかっているはずなのに、この予告は割と頻繁に、冷酷になされてしまうようだ。「引きこもり」状態は親を含めて、他人から見れば克服すべきことは「単純」に見えるが、本人にとってはどうしても克服できない「難題」にぶつかっているのだ。
自分でも課題は見えているのに、それをどう突破して良いのかが分からない。親からはかき口説くように説得され、泣かれたり、恫喝される。出口は見えない、無力感にさらされる。
しかし、いくら説得されても、踏み出すべき一歩が見えない。「僕はもう死んでしまいたい。自殺する。」と親に訴える人が少なくない。「自殺」の言葉をどのくらいの頻度で、どのくらいの期間続けているのかは分からないが、この「自殺宣言」は本当の「希死念慮」とは少し違うようだ。
「希死念慮」とは「死にたいと思う」ことで、病気とは言えないけれど「異常心理」の一つである。「自殺宣言」の方は親に宣言することで、親に「心配」させることに主な目的があると思える。
私どもらへの「相談」事例からも、かなりの頻度・確率で「自殺宣言」はなされているが、自殺の「実行」はほとんどないと言える。ニュースタート事務局関西は13年以上、恐らく1500件以上の相談実績を持つが、「自殺案件」の実行事例はない。「宣言」を受け取った両親らは驚愕し、動揺するが取り立てて、それを未然に防ぐような対策は取りようがない。
結果的に「無視」をするようになっているのだが、それが「良い」結果をもたらしているようだ。私どもが不安に思った事例は、「自殺宣言」が繰り返されるので、いつ実行されてしまうのかを恐れて、24時間「監視」状態にあるような事例だ。
刃物やロープ類を遠ざけて、常に本人の顔色をうかがっているのだ。「心配して貰いたい」という気持ちから、「自殺する」と訴えたが、これでは「自殺」を期待され、待っていられる状態と変わらない。結果的に24時間、自殺することから意識が離れない。本当に「死にたい」という気持ちはなくても、何かのはずみで、それを実行してしまいかねない。私たちの周囲では自殺実行事例はないけれど、間接的な伝聞では実行例はある。本人が何を訴えようとしているか、しっかりと理解して受け取ることが必要だろう。
もうひとつ陥りやすい「死」に関するやりとりを述べる。今度は親の側の発言がきっかけとなる。働こうとしないわが子に対して「私たち(両親)はもう老齢である。あなたより先に死ぬ。そうすればあなたはどうするつもりだ?」この発言に誇張はない。たいていは、停年前の60歳前後の父親の口から発せられる場合が多い。「先に死ぬ」時期は別として、この言葉にウソはない。
就職しようとしないわが子に業を煮やして、自分たちの死後はどうやって生きて行くのか?就職を迫る為の究極の「脅迫」なのである。「脅迫」の意図は別としてこの脅迫めいた言葉は殆どの引きこもりの親が口にしてしまうようである。確かに究極の選択を迫るような決め台詞である。ところが、この「脅迫」はほとんど「効果」を発揮しないどころか返って予想外の逆効果を生んでしまうようである。
子どもにとっていつか「親の死」を迎えなければならないのは自明の理である。難病などで親が長患いをしている場合を除いて、あまり意識の上に上らせたくない事実である。自分たちの「死後」、子どもはどうやって生きて行くのか。「死」が差し迫ったものでなくても、わが子がその課題を自覚して「仕事に就こう」としてくれれば、それに越したことはない。
親はまさか逆効果などあるはずがないと、気楽に口にしてしまう。子どもはその言葉をどう受け取るのか。確かに、今は、親は健在で、経済的にも困窮はしていない。しかし、自分自身が就職していない、出来ていないという状況を客観的に分析できているわけではない。
現実としては、望むような「求人情報」には出会えない。アルバイトの面接にさえ、出かける勇気がない。偶に出かけても、労働意欲を相手に伝えることができず、簡単に就職を拒絶される。
たとえ、親の死を予告され、脅迫されても、自分をめぐる就職状況に変化が表れるとは思えない。考えあぐねた末に、子どもたちの出した結論はこうだ。「お父さん、お母さんが死んでしまったら、私も死ぬ。だからその時は後のことを心配しなくてもよいよ。」
親にとっては予想外の結論である。「心配しなくてよい」と言われても、それが一番心配する点なのである。子どもにとっては、今働くことができていない。将来、父母が死んでしまうような事態が起こったとしても、就職するための条件が好転するとは思えない。あれこれ考えを巡らせはするが、考えの行きつくところは、今と同様の無為、何もなすべきことのない世界である。
「自殺」というものに罪悪感はあるが、父母がともに死んでしまえば、「自殺」を悲しむ人ももういない。自分としては、割合受け入れやすい結論なのである。これは、親にとっては、思考営為の中で必然的に逢着する悲惨な仮定であるが、子どもにとっては考えたくもない空想であり、とりあえずこの空想から逃げ出しさえすれば、当面の危機は逃れられる。
「将来の両親の死」という悲惨な事態を想起させられて、「自殺」という架空の結論を導き出すことによって、最も面倒な思考実験に予定調和的な解決策を思いつかせてしまった。昔の日本であればともかく、今の日本で両親が相次いで死んだからと言って、子どもがそのまま、飢え死にしてしまうような事態は考えにくい。結局、この両親の悲惨な仮定も、子どもの想像力を有効に刺激することはできず、無駄な恫喝として頭上を通りすぎてしまうだけのことになるようだ。
2012.3.12