NPO法人 ニュースタート事務局関西

「我思う」近代が隠蔽した身体  髙橋淳敏

By , 2025年12月20日 5:00 PM

「我思う」近代が隠蔽した身体

 近代哲学の父、ルネ・デカルト(1596-1650)が、その主著『方法序説』において到達した「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」という命題は、単なる哲学的一歩にとどまらず、その後の人類の思考様式を決定づけた。デカルトは、確実な知識の基礎を築くために「方法的懐疑」を用いた。外界の事象、自らの肉体、さらには数学的真理さえもが「悪い霊」による夢幻である可能性を疑った。しかし、そのようにすべてを疑い、否定し尽くそうとしている「疑っている自分自身の精神」の存在だけは、疑いようのない真実として立ち現れる。この「精神」という不動の定点を、彼は哲学の第一原理に据えたのである。デカルトは優れた数学者でもあり、平面上のあらゆる位置を数値化する「デカルト座標(x軸・y軸)」の発明者でもあることは興味深い。この座標系において最も重要なのは、任意に設定される「原点(0, 0)」である。彼の哲学における「我(精神)」とは、まさにこの座標の原点に相当する。自分という不動の視点を中心に据え、そこからの距離によって外界(物体)を測定し、管理する。これは、いわば精神の「天動説」的な世界観の構築であった。

 デカルトがこの「精神と肉体の分離(心身二元論)」を強調した背景には、当時の極めて政治的な事情がある。デカルトの先達であり、彼が尊敬していた「近代科学の父」ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、地動説を支持したことでカトリック教会の異端審問にかけられ、有罪判決を受けた。当時、地動説を唱えることは、聖書の記述と教会の権威に真っ向から対立する危険な行為であった。デカルト自身も当初、地動説に基づいた包括的な宇宙論である『世界論』の出版を計画していた。しかしガリレオの処罰を知り、教会との衝突を避けるために出版を断念する。その代わりに、より慎重な論理構成で世に問うたのが『方法序説』であった。注目すべきは、デカルトが「客観的」という概念を発明したプロセスである。彼は精神を物体(自然)から完全に切り離し、精神を「観測者」、自然を「観測される対象(機械)」と定義した。これにより、科学は「教会の管轄である魂」には触れず、「単なる物体としての自然」のみを扱うというポーズをとることが可能になった。つまり、近代科学が標榜する「客観性」や「主観の排斥」は、その起源において、宗教的弾圧を回避するための「戦略的妥協」あるいは「偽装」であった可能性が高い。彼は、自らの精神を「疑いようのない絶対的な定点」と設定することで、教会が守ろうとした神学的秩序や道徳と、科学が進もうとした合理的探究を、二元論という巧妙な論理で分離・共存させたのである。しかし、この「精神を物質から独立した特権的なもの」とする思考は、深刻な歪みを含んでいた。デカルトは『方法序説』の後半において、神の存在証明や、人間と動物・機械の差異について論じているが、そこには多分に強引な推論が見られる。

 彼は、思考する能力(理性)こそが人間の本質であり、それを持たない動物や、生命のない機械を「下位の存在」のように見なした。この思想は、自然を「人間(所有者)が支配し、利用すべき資源」として客観視することを正当化し、近代の環境破壊や人間中心主義の礎となった。さらに、この論理は人間社会の内部にも牙を向く。デカルトが想定した「理性ある精神」のモデルは、当時のヨーロッパ的な知的エリートに限定されていた節がある。理性的な思考が困難と見下された人々――障害を持つ者、非ヨーロッパ圏の民族など――に対して、同じ人間としての尊厳を認めない、あるいは「理性において劣る」とする差別的な視点が、後の優生思想や植民地支配を正当化する論理へと浄化されていった事実は否定できない。自分以外の他人、少なくとも肉体は、精神と分離された物体として考えるのだから。

 デカルトが座標の原点に据えた「コギト(我思う)」は、あまりに純粋で孤独な定点であった。それは場所も要さず、物質にも依存しない「純粋な精神」とされたが、この設定こそが、現実の人間が抱える「身体的制約」や「環境への依存」が考慮されない欺瞞の始まりであったと言えるだろう。精神が物体から分離して、どこにも属さず自立するように見せかけているデカルトの哲学は、自己を神格化する嘘ではなかったか。私たちが「思う」とき、そこには必ず肉体の鼓動があり、座っていればそこには椅子の感触があり、吸い込んでいる空気がある。以下に、方法序説で我思うゆえに我ありの説明をした文を、「精神の非自律性」を認めた上で組み替えるとしっくりくる。デカルトが精神が存在するためにはどんな場所も要せず、どんな物質にも依存しない云々と書いた節を訂正すると以下のようになる。

 

「私は一つの実体であり、その本質には考えることが含まれるが、存在するためには具体的な場所(居場所)を必要とし、常に肉体などの物質的な基盤に依存している。したがって、私の魂を身体や環境から切り離すことはできず、これらが損なわれれば、私の精神もまた変容するか、損なわれる」

 そして当の「引きこもり問題」について。デカルト的な近代自我の観点に立てば、問題は「本人の精神(やる気や考え方)」に集約され、内面を正すことばかりが強調される。しかし、精神が身体や環境に依存するものであると定義し直せば、解決のアプローチは180度変わる。部屋に閉じこもって思索にふけるとき、その内容を無理に変えようとするのではなく、まずは自らの身体の健康を整えること、そして自分が身を置く「家」や「部屋」という物理的環境、さらには他者とのこれまでの「関係性」を見直すことが、近代的な精神の変容に寄与することになる。デカルトの定点が起源となった「近代」という壮大な偽装から目覚め、今一度、自分の精神が「肉体」という重みを持ち、「環境」というネットワークの中に繋ぎ留められている事実を「思う」のがいいだろう。

 

2025年12月20日 髙橋淳敏

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