NPO法人 ニュースタート事務局関西

「支援」の終わり  髙橋淳敏

By , 2026年2月21日 5:00 PM

「支援」の終わり

 先月号にも訃報を書きましたが、当法人の設立者であり元代表の西嶋彰さんが116日に亡くなりました。西嶋彰さんは1998年にニュースタート事務局関西の活動を始められ、何人もの親御さんと面談や長期にわたって文通など交流する中で、2000年前後「引きこもりは病気ではない」との考えを主張するに至ります。今も継続されている「鍋の会」を始め、「訪問活動」や「共同生活寮」など運営され、日本スローワーク協会を一緒に立ち上げ、リサイクルショップやカフェコモンズ開店にも関わるなど、引きこもっていた人の社会参加の道筋を示されました。一方で、去年以前から予告されていたことですが、千葉にあるニュースタート事務局が、新たな「支援」を必要とする受け入れをやめ、今その活動を終えようとしています。ニュースタート事務局の代表をされている二神能基さんは、西嶋さんよりも前に活動を始められ、引きこもり支援の先駆者の一人です。西嶋さんも、ニュースタート事務局代表の二神さんも80歳世代です。NPOなどは、ボランティアがベースであったりするもので、いつまでも活動できるわけなのですが、さすがに上の世代に頼るのは難しい時代となりました。私が関わったころは、私はまだ20代で引きこもっていた人と同世代であったし、当事者意識の方が強く、「支援」をしている意識が当時から薄いものでした。いろいろと間違ったこともしましたが、当事者を代弁するようにして、親世代と考えの違いを言い合うことも多かったです。ですが、この活動をやっていると「支援者」として求められることが多く、それの方が居心地が悪くも感じていました。いつか私が西嶋さんや二神さんの年になったら、難しいことを考えなくても「支援」ができるものと思った頃もありましたが、どうも違うんじゃないかというのが今日のお話です。私はすでに親御さんとの方が同世代的であることが多くなり、訪問活動もお兄さんではなくおじさんになっていて、引きこもっている人の気持ちが分かるなんて思ってはいても、相手からすれば勘違はなはだしく、昔と同じようではなくなっているのも事実です。

 また昔の話しにはなりますが、「支援」に関する話しで、今でも覚えていることがあります。女性支援をしているある団体の代表者が話していたことです。その方は、下にいる人を上に引き上げることを「支援」に例えていました。文脈としては、生活水準を下から上へと引き上げるとか、女性の社会的なステータスを下から上に引き上げるとか、当時はいろんなところで聞いたような話しであったと思います。当時の女性支援はそうだったのかもしれません。ただ、私は引きこもり支援のことをオーバーラップして考えていたわけですが、こと引きこもり問題においてそういうことを「支援」とするのが納得いかなかったようで、というのも引き上げることが「支援」であるのならば、私たちがやろうとしていることは何なのか?と考えていたのです。時代は失われたと言われ始める経済成長期が終焉したころです。経済成長期は日本のほとんど多くの人たちの生活水準や暮らし、ステータスまでもが、見るからに上がっていった時代です。今の若い人たちには信じられない話しですが、それほど大きな国でもない日本が、世界でトップになったりもしました。そういった時代においては、暮らしやステータスを下から上へと引き上げることが「支援」であったのかもしれません。ですが、皆が落ち目になっていく時に、下から上がるというのは、その中の誰かと競争して勝つことであったり、近くの誰かを踏み台にするようなことです。よく例えられるのは椅子取りゲームなどですが、支援する人自身が座れる椅子や立っていられる足場もなければ、一方的に支えようとすることは、支える人を重石のような存在に変えてしまいます。私は落ち目の社会状況で、自らも不安定な生活をし、引きこもっている人の境遇と変わらない同時代感覚がありましたので、この引きこもり問題における引き上げ型の支援はできないと考えていました。あるいはできたところで、一過性のごまかしに過ぎないとまで思っていました。そして、上と下にいると考えては、支え合うことも難しいのです。

 引き上げ型の支援的考えはそもそも親子関係に表れていました。親は子に対して、同じような家族形態で同じくらいの生活水準の暮らしができるように、子に教育させたり自立させることをしていました。それでも慎ましいくらいの望みと思われている人がほとんどでした。ですが、当時から20年以上経過して、世代は変わりましたが例え引きこもっていない人でも、当時の子世代は中央値計算で100万円以上も収入が下がり、物価も高くなった生活を現在は強いられています。これだけでも普通と思われていたことが、高望みであったことがわかります。最近の若い人から「普通になりたかった」ということを何度か聞くことがありました。さらに欲深い親の中には親以上のステータスや収入を求めようとしたりとか、親がした苦労をしてほしくないなどと早めに受験勉強をさせて進学校へ行かせたりとか、子である期間を奪うことすら子供のためと考える親は今も多くいます。親は支援者ではありませんが、わが子だけはと「普通」などの言葉で引き上げようとしています。経済成長期は歴史的には特異点であったはずです。そこから下降の一途を辿っていることは、確実に次世代の生活水準は下がります。同じやり方で、わが子だけを上げようとしたり、楽な暮らしをさせようと望むのは誰かと競争を強いることになります。競争させるような場へと引き上げるのか、あるいは年金などもらって生活水準を引き上げるのか。いずれにしてもそこに「支援」活動を見いだせませんでした。「ひきこもり」を病気や障害などと個別の問題とすることによる弊害は他にも書いていますが、ならばその「支援」も考え直さなくてはなりません。少なくとも私たちは引きこもっている人に限らず、不安定ながらも同じような地平に立っています。なので私たちができることは支え合うことであり、共に生きていくことです。引きこもる人もいろんな人がありますが、私が出会った中では彼・彼女らはどちらかというと、人に助けを求めることや支えられることが不得手でも、人を助けたり支えることが自然にできてしまう人が多いように思います。もちろん、誰とでも支え合えあったり、ずっと共に生きていける超人やユートピアの話しをしているのではありません。それに、まずは支えてもらうことが必要な人がいることも忘れてはいけません。そして、私たちは家を出れば誰かと支え合うことができ、ある時期はともに生きる誰かはいるような社会を作りたい。それができれば引きこもっていることは問題にもならないでしょう。

 「支援」は一方的なものではなく支え合うこと。支援することと支援されることは、打った右手と左手のどちらの音が鳴ったか答えられないように、支援するものと支援されるものは分けることができない。支援という行為によってどちらもが支えられている。理想の話ではなく、現実がそのようであること。例えばあなたが車いすを押しているとして、そのことで車いすに乗っている人があなたに支えられていると思うのならば、あなたは車いすに乗っている人に支えられていることにもなる。例えばあなたが寝たきりでおむつを替えるときに、腰を少し浮かすことができるのならば、その行為があなたのおむつを替えようとしている人を支えていることになる。こういったやり取りは、サービスのようにはならず、貨幣経済には汲み取れないコミュニケーションです。だがこれは昔も今も常にたくさんある行為であり、それが支え合いです。そういった行為を貨幣換算すべきだと言っているのではなく、むしろ逆に支え合うことなしに私たちの暮らしは成り立っていないことを意識するのが良いでしょう。お互いに支え合うことは、お互いが支え合っていることを自覚していくことでもあります。自分が支えていると思っているのに、相手がそう思っていないのならば、支えあっている相手を変えようとするのではなく、支えていると思う行為をやめるしかないと考えます。

2026年2月21日 髙橋淳敏

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