直言曲言 第314回 「旅」
私は旅が好きである。旅が好きな人などどこにでもざらにいる。ことさらに言いふらすほどのことではない。ただ私は「マニア」と言ってよいほど旅にこだわる。「旅好き」に原因や理由など必要ないだろうが自分で考えれば多少の動機があるかもしれない。それはそのころの私の行動原理が「素朴実践主義」(「体験至上主義」)であったからであろう。もともとそんな行動原理ではなかった。子どもの頃の私は極貧の浮浪児であり、学校生活に憧れていた。大学に入って、あらゆる権威や資格などに否定的になり、自らの目で物を見ることや人や地域に「出会いたい」と思うようになったからである。
30歳を少し過ぎた頃、私はある会社に勤めていた。20歳代の頃から、旅に凝りだして日本中の都道府県を踏破することを目標にしていた。47都道府県のうち、数県を除いて既に訪問済みだった。東北地方の日本海側の3県ほどが未知の県であった。ある年、出張の依頼があり新潟から山形や秋田へ出かける案件が持ち上がった。私は喜んでこの出張に出かけた。これで日本中の都道府県に足を踏み入れたことになる。特別な記録ではないし自慢するほどではない。しかし目的的にそんな目標を立てない限り、なかなかに実現は困難ではなかろうか。
その後、私には取り立てての目標はなかった。「旅好き」と自認していながら、私は海外旅行の経験がなかった。お金や機会がなかったわけではない。35歳の時、私はある会社の社長になり、社員は何人も業務上の海外旅行をこなしていた。私には、大した意味はないのだが、多少意地を張る理由があって44才になるその日まで、パスポートを取った経験がなく、海外へは一度も足を踏み出したことがなかった。
その年の夏、業務上の理由もあり、取引先や顧問の大学教員と私が一緒にヨーロッパ一周の旅に出かける機会がやって来た。旅自体はバブル期のこともあり、多少贅沢だが何の変哲もない旅であった。つまりは2週間6カ国の周遊で代表的な観光地をすべて回る旅であった。
少し変わったことがあったとすれば、経由地のロンドンからの帰路、飛行機が中東方面を飛行中米軍機の指示を受けアラブ首長連邦のドバイに舞い降りたことであった。もちろん、乗客である我々に米軍の指示など届いたわけでなく、そこがドバイであることも知らされなかった。まったく不明な空港に舞い降り、いわゆるトランジット扱いで我々は空港施設内に入った。免税の売店では見たことのない貴金属が売られていて、そこが産油国のどこかで中東の都市であることは推測された。完全武装の女性兵士が小銃を手に警戒していて、またその兵士のイスラムらしい覆面の眼の大きく美しいことには驚かされた。やがて待合室に日本人のビジネスマンの姿が見え、海外駐在員の彼の口からそこがアラブ首長国連邦のドバイであることを教えられた。その時、ドバイに臨時着陸した理由はその後帰国してから初めて知った。
1990年8月2日、イラクがクェートに侵攻し米軍が中東一帯を飛行禁止区域に設定したいわゆる「湾岸戦争」の開始日であった。世界史には何のかかわりもない某航空会社のフライトプランの変更に過ぎないのだが、旅好きの私には未知の空港と未知の民族の美しい兵士に出会った貴重な経験となった。
ソ連のゴルバチョフ書記長が辞任し、ソ連が崩壊したのは1991年12月のことであった。翌1992年夏、私はハバロフスク・ウラジオストックのロシア極東地方を旅行した。契機は、私が仕事上「環日本海国際会議」という国際シンポジウムを舞鶴市で企画・プロデュースしたことであった。当時の中国は北朝鮮との国境の町の先わずか15Kmで国境を流れる川・豆満江両岸を北朝鮮・ロシアに阻まれ日本海への出口を失っていた。中国としては広大な国土を持ちながら、日本海に出口を持たないことによって、貿易上の利益や機会、交通や時間などの利益を失っていた。北朝鮮やロシアにしても辺境開発の好機であった。
私がプロデュースしたのは在日本の中国人学者やソ連領事館員・朝鮮総連のメンバーなど「疑似国際」会議であったが、この時の「北東アジア経済フォーラム」は、私は同趣旨の会議を企画した縁でオブザーバーとして誘われたが露中朝のほか日米韓モンゴルなど総勢120人の参加する本格的国際会議であった。会議そのものは、私は単なる傍聴者であり、その後の展開を見ていても国際的な成果は上がっていないように見える。しかしこの時期、つまりソビエト崩壊の翌年、この地域を旅したことは私にとって忘れられない体験となった。
露西亜辺境への旅であったが、出足はごく普通、上海経由で北京に入り、そこから中国北東部(旧満州)吉林省の省都長春へ、長春からは40人乗りのチャーター機で延吉(えんきつ)へ。延吉は延辺朝鮮族自治州の州都、市内の広告看板は朝鮮語と中国語の併記だが縦書きでも横書きでも常に朝鮮語優先。その後私たちはフンチュンの町に着いた。
そこは人口5万人ほどの町だが、前年までは閉鎖都市で外国人は入域出来なかったそうだ。長春や延吉と違って農村の集落のよう。ここには空港も鉄道もないが、三国交流の中国側拠点になるらしく、鉄道建設が進んでいた。
中露の国境は、高速道路の料金所のような欧州の陸上国境とは違い、両国の税関小屋が離れてありいわゆる国境地帯である。ロシア側に入ってから旧ソ連の軍用ヘリコプターでハサンという小さな町に着いた。そこの市議会議場に入ると演台の正面に当然ながらソ連旗ではなくロシア国旗が掛けてあった。ハサンからヘリで15分、ウラジオストックに着く。ここも昨年まで外国人の入域出来ない閉鎖都市であった。極東最大の軍港であったのだ。ウラジオストックはモスクワを起点とするシベリア鉄道の終着駅。鉄道ファンたちは1週間もかけてモスクワからやって来ながら終着目前で下車させられた。私は逆方向であるが、ウラジオからハバロフスクまで一晩の夜行列車を体験した。
ウラジオストック中心部の公園で2人の男が論争していた。一人は共産党支持派で、他の一人は反対派らしい。支持派は言う。「去年までの共産党政権の方が良かった。なぜなら、共産党は毎日牛乳を与えてくれた。今は牛乳も手に入らない。」共産政権の良し悪しは別として為替レートの暴落ぶりは気の毒なくらいであった。
旅の詳細は書ききれないが、辺境やローカルほど思い出は深い。脳梗塞を患ってから、旅の自由度は失ったが、病院内外だけの不自由な生活を覚悟していたが、妻の車に乗せられて、大阪へ行ったり若者たちの夏休みに随行することも出来た。新幹線にも飛行機にも乗ることができた。旅の思い出、人生の喜びが戻って来た。
2012.1.11