NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第313回 「福 祉」

By , 2011年12月13日 5:26 PM

私は「福祉」という言葉が根っから嫌いだ。私自身が子どもの頃から「福祉」というものの恩恵をさんざん受けてきたからなのかもしれない。釜が崎の浮浪児であった時代に『不就学児一掃運動』という福祉活動に出会い中学校に編入させてもらい、2年後には福祉のモデルのような形で大阪市の表彰を受け、担任の教師や学校長、教育委員から市長まで福祉の志厚い人々から褒めそやされ、赤っ恥をかかされたことを未だに根に持っているからなのかもしれない。

とにかくそういう人々には人間的な温かさなどこれっぽっちもなく、うわべの言葉面だけの「優等生」扱いを強いられてきたからである。おまけに、私には他人の「善意」を誤解により捻じ曲げてしまう傾向があるらしい。大阪市は第一次「西成事件(1961年8月、私たち地元住民は『釜が崎闘争』と呼ぶ)の後に釜が崎一帯のことを「あいりん地区」と呼ぶようになった。多分キリスト教の「汝の隣人」を愛せよという聖書の言葉からとった『愛隣』が語源なのだろう。しかし私は最初にこの言葉を聞いた時から『愛憐』つまり釜が崎を『憐れんで』の命名だと直感し、『上から目線』の『あいりん』の名を使ったことがない。行政から憐れんでもらう必要などまったくないと思っていたからである。『福祉』という言葉もなぜか『福施』と書くような気がしていて、上からの「施し」というニュアンスで受け止めていた。

「憐れみ」や「施し」などと、漢字の誤読によって受け止めての言葉の理解だから、他人にその意味を押し付ける気はない。しかし誤読といえど、生来の反抗心に根差した思い込みだけにその語感はなかなかに根深い。福祉とはもともと国民の最低生活の確保を図ることを意味するが、資本主義の一定の隆盛によって、大部分の国民は最低限の生活を上から見下すようになり、一定レベル以下の国民を政策的に救済するための施策を意味するようになっている。「救済」そのものは悪いことではないが、その「レベル」は社会的な基準によるよりも、救済する側の「憐れみ」や「施し」などの主観的な感情によってもたらせられることが多い。

『福祉』のモデルとして北欧の国家群があげられることが多い。もちろん高い福祉給付は、高い税負担によって支えられている。これらの国家システムは、「社会保障」という制度的に保証されているものであり、「社会福祉」はその一環であると考えられる。西欧における「社会保障」はキリスト教的な慈悲に裏付けられ、日本においては仏教的な慈悲の精神に裏付けられているとされるがいずれにしても弱者救済の観点から公的な支援、公的扶助を行うものであり、日本では憲法で保障される最低限の文化的生活を提供するものである。

おそらくここで言う「公」の理解が異なることにより、基本的人権の問題が私的心情により左右されるかのような印象が強く持たれてしまうのである。「公」の理解・感覚とは恐らく歴史や教育によるものであろうが、ジャーナリズムによる国民的コンセンサスの形成の仕方にも影響されている。

最近考えるのは福祉の一つである「生活保護」の問題がある。根源的な原因は分からないが大阪市において「生活保護」受給者が激増していると言うのである。「生活保護」は最低限の生活を維持できない人に対して支給されるものであり、これが激増するとすれば大阪という一地方の問題ではなく、国家的レベルにおける経済運営の問題であるはずである。現実の報道によれば、支給判断が「甘い」とか不正受給が多いなどと指摘されている。社会的に保障されているものなら地方行政の責に帰するのはおかしいのではないか。

なぜ「社会福祉」の問題を取り上げるかと言うと、「引きこもり」の問題を「社会福祉」の文脈で取り上げようとする傾向があり、私には「無理」ではないかと思われるからである。「引きこもり」はこの20年程度社会的な課題として取り上げられてきた。しかし、明確な社会的コンセンサスを得られるような理解も解決法も提示されていないように見える。

明瞭な原因指摘がなされないまま、宙に浮いた問題に対して、「発達障害」原因論や精神障害に原因を帰する傾向が増加し、それが放置されている。明確な病気説は出ていないものの、それを否定する言説も公認されていず、公知の解決法は認められていない。しかし、自治体等にとって「引きこもり」についての相談等は増え続けているのが実態であり、責任ある対処法は示されていない。明確な指針を示し得ないままに、保険関係部署などの「現場」に判断が委ねられている。そこで登場するのが「社会福祉」責任論であり、「社会福祉」関係者が「引きこもり」を「何とかしなければ」と思い始めているのではないか。「福祉サービス」に関わっている人々が「引きこもり」に関心を持って頂くことは良いことである。では彼らはどのようにして「引きこもり」と出会うのであろうか。

「引きこもり」支援の看板を掲げれば、引きこもりの親たちと出会うことはできるであろう。親たちは「引きこもり」の子どもたちの惨状を訴えるであろう。ただし、その親たち自身が当事者と理解しあえていないのである。当事者が何を求めているのかを理解しえていない。「福祉サービス」担当者はどのようなサービスを用意すれば彼らを引き寄せることができるのか。もし「引きこもり」当事者自身に出会おうとすれば、彼らとどのようにして出会うのか。

もちろん「引きこもり」は家の中に「こもっ」ており、町中で容易に出会うことはないであろう。彼らの多くは、福祉担当者が発する情報に接することはなく、当然そのレスポンスは期待できない。彼らのアンテナの受診率の高いのは、恐らくパソコン通信であるが、そこで福祉担当者はどんな情報を発信するのか。『福祉』の対象者はおそらく「病者」「障害者」、「不登校者」「失業者」などのいわゆる「社会的弱者」を探索し、彼らにメッセージを伝えようとするかもしれない。ところが彼らのほとんどは自分のことを「社会的弱者」だとは考えていない。あるいは「引きこもり」が長期化する中で、「外出」の恐怖や「対人」恐怖など個別的な能力について「不安」を抱えているかも知れない。

それでも彼らは「福祉」の側からの呼び掛けに容易に応えようとしないだろう。それはなぜか。そもそも彼らが「引きこもる」ことになったのは、彼らに何かの「能力」が欠けていたからではなく、むしろ今の社会制度の欠陥が人より良く見えると言う「過剰」のせいなのである。従って彼らは多くの場合、人よりも「プライド」を高く持っていて、「憐れみ」を受けたり「福祉」の施しを受けようなどとは考えていない。彼らと価値観を共有するためには、あなたも一度「引きこもってみる」必要があるのではないか。

2011.12.13

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