直言曲言 第312回 「本質と派生」
私たちニュースタート事務局関西が、大阪で引きこもり問題の第1回相談会を開いたのは1998年の10月である。今年で満13年になる。この間、1度も休まずに毎月、相談会を開催してきた。マスコミが告知してくれたこともあったが、最近ではホームページに掲載する以外は何の告知もせずに毎月開催しているが、必ず新しい参加者がある。私・西嶋は昨年関西の代表者を退いて、高橋淳敏君に後事を託しているが、毎月の例会にはほとんど参加している。司会進行を若い人に託し、傍聴しているとふと気付くことがある。参加者はそれぞれにお身内の「引きこもり」状況をお話になるが、ほとんどがご自分に理解できない「現在の状況」を訴えられる。これはほぼすべての参加者に共通している。私はそのような状況になり始めた経緯や原因と思われることを聞こうとする。記憶を頼りに推察を語ろうとする人もいるが、話しているうちにいつの間にかまた今の状況と愚痴に代わっている。もちろんお話は正確に再現されなくても、こちらでもほぼ推認は可能なのだが、お話しされている親御さんご自身の中では引きこもりの「本質と派生」が整理されないままで混沌とされているのではないかと気になる。
派生している「現実」はほとんどみな変わりない。対人恐怖や人間不信が共通しており、外出を嫌い、他人に会おうとしない。当然無口になり、さらに、様々な神経症が派生する。他人との接触を嫌っていることから極端な潔癖症となり、ますます人を遠ざける。この「不潔」だと思う気持ちは母親を含む家族に対する時も同様だ。これらの態度は普通では考えにくいことから、精神病を疑ったりするが、それほど難治性でもない。例えば、幾ら話しかけても答えようとしないので、言葉を失ってしまったかと思うが、長い間話をしていないので単純に、声を発する方法を忘れてしまっているだけのことが多い。
引きこもりがどういう症状を呈するかは、いくつかの症例を見ていれば医師でなくても分かる。引きこもりをまるで医師の専門領域であるかのように言うが、それなら原因や経過、治療方法までを示して欲しいと思う。私はもちろん、専門家ではない立場で、相談を受けはじめ、最初に十例ほどの似たような症例を見た時、共通する要因のようなものを仮説として想起した。その後10倍、100倍の症例に遭遇する中でその仮説を検証してきたが仮説を覆すような別の要因は見つけられなかった。
近代社会は複雑に絡まり合い、検証されてきた社会システムにより成立している。従って社会を構成する諸個人はシステムを主体的に構築してきたとは意識しえず、古くからの所与のシステムの中に生かされていると錯覚している。堅牢な金属機械でも突然原因不明の折損事故を起こしたりする。調査の結果、それを「金属疲労」などと推定することがある。おそらくそれは正しいのであるが「金属疲労」とは何かが解明されているわけではない。近代社会の運営システムの中にも「システム疲労」「制度疲労」と言わざるを得ないような理由で突然システムが陳腐化し、社会運営の役割を放棄してしまうようなことがあるのではないか。私は「資本主義運営」のサブシステムとしての「選別システム」がそのような時代を迎えていると思う。資本が高度に活用され始めようとした時、それを支えかつその恩恵を受ける人間を選別せざるを得なくなった。つまりそれは資本を活用し、人を搾取する人間と搾取される人間の選別である。学校教育のシステムがそれに役だった。義務教育から、高等教育へ。それでも不十分なら、様々な選抜試験や資格システムへ。資本主義の発展はそれと軌を一にしながら進展した。その発展過程にあった我々世代の青春時代は、その受験戦争の時代を都合よく利己的に「必要悪」と認識して受容していった。高度経済成長の時代は高度選抜の時代でもあった。多数の人が選抜される必要があった。選抜された人が次々に企業や行政に吸収されていった。それが幸福への最善の道であるかのように人々は受け入れて行った。やがて国際化や企業の空洞化、経済自体の空洞化やバブルの崩壊が進み、人余りが進み、人材の選別は無用化して行った。「必要悪」であった人間の選別システムは「必要」ではなくなり、「悪」だけが残り疲労したシステムだけが残った。選別と競争の中で報われることがなくなった子どもたちは、ただ傷つくだけの結果を知り、競争を拒み始めた。
長い間、競争の中で育つことを教えられてきた親たちは、競争に勝つために友だちを傷つけることの罪悪性など思いもつかずに生きてきた。競争の時代から残された形骸化したシステムは明らかに前近代の社会的遺産と言えるが、その競争を自分に強いているのは「学校」であり、「先生」であり、「親」である。「社会」システムに対する不信は個別的に強制する身近な親や先生に対する不信につながるとしてもやむを得ない。
成長期に「必要」であったかもしれない「選別システム」がもはや無用になっていることは「火を見るように」明らかである。それは直接的に「選別システム」たる大学入学試験の実施者自身が最もよく知っている。「少子化」とは誰もが意図的に招来しようとは思っていないのに、彼らの個別的な行いが将来確実に招き寄せてしまう社会の現実である。その少子化が大学志願者数の減少を招き、大学入学定員を下回ってしまう。現在既に入学定員割れを起こしてしまっている大学は数多い。つまり入学選抜試験など陳腐化してしまっているのだ。しかし、いかに陳腐化しようと選抜試験を放棄してしまえば「大学」というシステム・制度自体が成り立たなくなる。現実にこのような「大学」は存在し、それはいつか自然死せざるを得ないようなシステムの残骸と化している。そのような残骸の学生とは何だろうか。確かに、選抜されようと、全員入学になろうと、入学試験は「あった。」やがて彼らは知るだろう。「選ばれた」者としての「誇り」などどこを探してもなかった、と。それは誰によって知らされるのか?彼らを教え、誇りある人間として育てるはずであった教員スタッフによってである。なぜなら、彼らは選抜などしないで拾い集めてきた生徒だということを知っているからである。卒業後も有用な人材としての求人などあるはずがない。そんな達成感の何もないシステムでも、他人を蹴落とすと言う競争の残りかすだけが辛うじて生き延びている。こんなまやかしの社会システムが若者たちを「ごまかす」制度として「通用」すると思っているのだろうか?このような社会的詐欺システムが公然と生き残っている以上、若者は引きこもらざるを得ないし、世界のアンチ詐欺システムへの反対デモの隊列に合流していくしかないだろう。
2011.11.07.