直言曲言 第309回 「下流の宴」
「下流の宴」とは5月末から7月にかけてNHKで全8回にわたって放映された連続ドラマのこと。再放送やパソコンで見ることも出来ようが、林真理子さんの原作本が毎日新聞社から発行されている。興味のある方はご購読願いたい。このドラマをテーマにして7月31日に高槻市でシンポジウムを開いた。ゲストとして、ドラマを演出した勝田夏子さんとニュースタート事務局理事長の二神能基さんにおいで頂いた。そもそもなぜ「下流の宴」かということはこの稿で明らかにするつもりだが、演出の勝田さんと言えば聞き流すわけにはいかない大事な人なのだ。4年前に『スロースタート』というドラマを演出された。東と西のニュースタート事務局に取材されただけに、引きこもり青年の心理をよく捉えられており、我々の活動もリアルに再現されていた。
ところで私は最初に「下流の宴」と聞いて奇妙な感を抱いた。「下流」とは?上流・中流・下流の下流には違いないのだが、下流という言葉を単独で使うのは聞いたことがない。上流階級とか中流意識とかは耳慣れているが下流というのは差別用語としてもあまり使われないようだ。経済的階層を区別するなら「下層階級」などの方が耳馴染みが良い。原作者の林さんが「無理に差別用語を作り出しているな」という感じを受けた。実際このドラマには大して深い意味があるのかないのか分からないが「差別」の問題が頻出する。下流とは経済的階層差別だが、ヒロインの宮城珠緒は沖縄の中の更に離島の出身であり、ドアスコープ越しに見た福原由美子の最初に見た印象は「ブス」。それだけで由美子は息子の嫁にふさわしくない女と断言している。ドラマのストーリーは由美子が自分の父は医者だと自慢し、下流のあなたとは住む世界が違うと差別するが、珠緒が医学部を受験して合格したら結婚させてくれと要求する露骨な偏差値差別。サブストーリーとして展開する主人公/翔の姉は派遣社員、翔はマンガ喫茶のフリーターと言う職業差別。その他デブだとか、気にしだしたらきりがないような差別用語のオンパレードだが本題には関係がなく、下流と言う言葉だけが浮かび上がる。
このドラマはいろんなことを考えさせてくれるのだが、ストーリーは単純、珠緒を下流とさげすんだ由美子が珠緒の医学部合格により失意となる、まるで勧善懲悪ドラマ。おまけに由美子の幼馴染である島田先生(受験指導のカリスマ)は子供時代に珠緒の母から「あちら側の人」と差別を受け、一念発起をして東大に入り由美子の嫌う珠緒を医学部に合格させて「復讐」に「勝利した」と叫ぶ「復讐劇」でもある。
由美子を演じるのは美人女優・黒木瞳。上流かどうかは知らないけれどテレビに出てくればいつも幸せの真ん中にいるような満ち足りた存在。その彼女が高校中退(学歴は中卒)の息子を抱え、世帯やつれをした中年女を演じる。相談に訪れる引きこもりのお母さんのようで身につまされる。勧善懲悪の復讐劇の要だから、連続時代劇ドラマのようにストーリー展開は見えている。珠緒の医学部合格は視聴者には見えている。そこまでは奇跡でも意外でもないのだ。医者になれば、翔との結婚を許されると信じていた珠緒だが、翔は「僕たちはもうこんなに離れている」と離別を宣言。原作を知らずにドラマを初めて見たスタッフはこんな翔に憤慨。勧善懲悪を期待したわけではなかろうが、ヒロイン珠緒が幸せをつかみ損ねたことはお気に召さなかったようだ。しかし私にはこう思えた。珠緒が難関というより、ほぼ不可能と思えた医学部に合格し、翔との結婚を許され、ハッピーエンドに終わるなら、これは単なる難関克服の根性ドラマではないか。翔は一見幸せに見える上昇志向と頑張り、称賛に背を向けてこそ、現代若者の運命を背負って生きて行く姿こそ我々に何かの意味を突き付けたのではないか。
私には手前みそだがそのような「選択」の経験があった。私は子ども時代、悲惨な貧乏体験をしたことは何度も書いている。住む家もない流浪の生活の中で小学校時代を過ごした。小学校も卒業せず貧民街で暮らしていて、「私は一生あちら側の世界には行けないのだろうか」と考えていた。単に「上流」「下流」の差別ではない。学校にも行けないと言うことは、水の流れがつながっていない。自分が住んでいるのは川ではない「水たまり」であり、やがて泥沼になり干上がって消えてしまう所ではないか、と考えていた。「不就学児一掃運動」というのがあり、私は小学校を卒業しないまま中学校への編入を認められた。「学校」というものに強い憧れを持っていた私は乾いた雑巾に水が沁み入るように知識を吸収していった。高校に進学し、やがて現役で京都大学法学部に進学した。そこまでは宮城珠緒のような成功談かもしれない。当然ながら、私には弁護士になると言う夢もあった。司法試験という難関はあったが、不就学児が京都大学に合格すると言う道のりに比べたら、大したことはないように思えた。ところが実際の人生には様々なまがり道や障害が横たわっていた。どれも私の人生の選択を正当化するものではないが、私は特権的な武器や資格を得ると言う道を放棄して、弱い人や虐げられた人々のそばにいると言う道を選んだ。結局私は学生運動の中で刑事被告の立場に置かされ、謝罪を拒んだ私は短いが実刑の有罪判決を受けた。就職することもなく大学を中退する道を選んでしまった。
珠緒の上昇志向に加担する人たちや心情的に母親を応援する人たちは翔君がこの期に及んでも、努力する人・珠緒に背を向けて負け組の道を歩いていく、だメンズだと烙印を押そうとするが果たしてそうなのだろうか。中学校に編入してから十数年、私がどのような人生を選択しようが誰も私を「卑怯者だ」と罵る人などいなかった。むしろハッピーエンドの道を歩けない「バカ者だ」と笑う人の方が多かっただろう。しかし、私自身は子ども時代に苦労した私自身の人生を裏切ることは出来なかった。
このドラマに出会って必然的にあることを悟った。われわれは当然ながら「病気ではない」引きこもりの味方だと考えていた。しかし一方で、相談を持ちかけるご両親の気持ちに沿って、彼らに生きて行く能力をつけさせねばとも思っていた。それはある意味で珠緒のように上昇志向を肯定する道だが、翔のように上昇志向にハッキリと背を向けて降りて行くことも否定できないのではないか。知らず知らずのうちに、根底的なところで上昇志向の側に身を置いてしまっている我々を翔君たちや過ぎ去って行った引きこもりの人たちは、味方だと思っていてくれるだろうか。お父さんやお母さんたちさえ、敵である社会の側の人間として対話を拒否してきた彼らは?
2011.08.08.