NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第308回 「妄信」

By , 2011年7月13日 5:16 PM

妄信・妄想・妄言・妄動…「妄」の付く言葉はいずれもよからぬ意味であり、理知的ではない言葉や行動、思いだとされている。広辞苑で「妄」そのものの意味を調べると「みだりなこと。でたらめ、いつわり。またはつつしまぬこと、不法。」とある。「法」などという概念が登場するとややこしい。もともとは梵語からきた仏教概念で仏の教えを指す意味らしい。不法とはその否定であるから、みだら つまり理知的・理性的ではないと言う意味らしい。私は仏教徒ではないが、青年期には理知的な人間だと自ら信じていたので、妄想・妄信などと言われると自身の理性を否定されたような気がして「嫌」な気がしたものだ。ところがいつの間にか、他人の考えや行動を「妄想」「妄信」などと否定的に判じること自体に疑問を持ち始めて、むしろ「妄」という「みだり」なことに興味を持ち始めている自分を発見した。

考えて見れば、そのような考え方の転機は、やはり5年前の脳梗塞の発症であったような気がする。それまで私は60年ほどの人生を生きて来て,何回かの「人生の転機」を経験してきた。しかし、そんな「転機」の前後においても私の「人生観」のようなものは変化せず、いわゆる「近代合理主義者」であった私は、その合理性を疑うことなく、自分の生き方の道筋に納得してきた。あるいは、自分で納得できる範囲内で、生き方を微調整してきた。自分が納得できる合理性の範囲内であるから、あらゆる判断は自分にも相手にも説得できる理論的根拠を持っていた。ある意味ではがむしゃらに自分を信じて生きてきたのだ。5年前の秋、私は61回目の誕生日を迎える寸前だった。H市の保健士のみなさんを8人ほど迎えて「引きこもり」の問題と我々の活動について説明しようとしていた。その時、数秒の時間が過ぎた。何が起こったのか分からなかった。自分が意味不明な言葉を発しようとしているのに気付いた。しゃべろうとしている言葉が相手に伝わっていないのだ。やがて、人々がざわつきはじめ、誰かが「脳溢血じゃないか?」と叫んだ。「救急車を呼べ!」の声が聞こえた。救急車を待っていた記憶はない。救急車はすぐに到着し、私は誰かに支えられて、2階の部屋から階段をおろされた。抱きかかえられていたかも知れないが、半分は自分の足で歩いていた。

救急車に横たえられて、妻が私の傍らにいるのに気付いた。救急車の行き先は妻が思いつき、私に同意を求めたような記憶がある。数年前に椎間板ヘルニアの相談に乗ってもらった神経外科の先生のいる病院だった。発症からしばらくの間、私は一度も気を失っていないはずだが、どのように時間が経過して行ったのかには記憶がない。救急車は病院に到着し、裏口のような所から搬入されると、そこが応急処置室だった。発症してすぐに救急車が呼ばれ、病院へもそれほどの間をおかず到着したのに、応急処置室では急いで応急処置が施されたような記憶はない。脳卒中であれ、脳梗塞であれ、一刻を争うような病気のはずだが、処置はのんびりとした時間の流れの中で行われていた。尤も、私自身が医者や看護婦の行動のスピードを測っていたわけではないので、それが早かったか遅かったかは本当は分からない。

いずれにしても、のちに分かったことだが、その当時私は生死の境をさまよっていたはずだが、割合と冷静に周囲の状況の変化を見つめていた。多分その日のうちだが、CTスキャンやMRIなどの装置で脳内の断層写真を取られ、その時には病人ながらに「じっとしていなければ」という思いがありやや窮屈であった。5年ほどたった今でも思うのは生死の境をさまようと言うのは痛くも、苦しくもない経験だった。心臓が止まるとしても胸を締め付けられるような痛さもなく,呼吸が停止するとしても息苦しさもなかった。それと、生死の境をうろついている患者を前にして医者も看護婦もわが妻さえ、思ったよりも冷静だったなという感想であった。多分その冷静さが私の命を瀬戸際で拾い上げてくれた。これは疑いようのない事実であった。それから半年、2つの病院でのリハビリ期間を経て私は退院した。左半身不随という後遺症は残ったが、心配だった構音障害はほとんど気にならなくなった。

たった一度の入院経験で言うのは大げさなようだが、このことで私の人生観は変わった。それまで60年生きて来て、いろんな経験をした。一度も経験をしなかったのは、死についてまともに向かい合うことだった。いつも考えていたわけではなかったが、いずれやって来る死というものは怖かった。この入院で垣間見たような気がした「死」というものはそれほど怖いようなものではなかった。いずれ近い将来にそれがやって来ても、淡々として受け入れられるような気がした。私はこれまで「理性」というものを信じて生きてきた。「理性」があるからこそ「死」というものが怖かったと言える。妙な言い方かもしれないが、この体験は「死」という恐怖からの解放であり「救済」であった。宗教的な救済とはこんなものかもしれない。私はこれまで抽象的な神は信じさえすれ、人々が信じる宗教というものは信じたことがなかった。宗教というものは未知の「死」というものを恐怖するあまり、人々が生み出した幻想であり、「救済」されようとする妄想・妄念であると考えていた。そのような妄想・妄念があると言うことは理解できても、自らがそれを信じる妄信を受け入れることは出来なかった。

死というものが受け入れ可能な感覚体験に出会って、それが宗教的救済か否かは別として妄想・妄念も妄信も生き続けるためには許されるものだなと思った。引きこもりの相談を始めて度々遭遇する「狂気」や「妄想」というものも、それほど必死に否定しなければならないものと思えなくなった。ただ他人の「狂気」や「妄想」を否定するには、否定する側の「自分が正しい」とする基準があるのに気付いた。多分、その基準こそが不確かな確信に基づく思い込みで、「相対的」なものに違いない。自分たちが数十年生きてきたとすれば、その生きざまを支えてきた方法論があるに違いない。普通は、その方法論を信じて来ているから、それに左右されない自由な発想や考え方があると、それを「狂気」や「妄想」と呼んでしまう。もちろんどちらが「妄想」であるのかは統計的な多数の勝負ではないから分からない。自らの宗教的救済を根拠に、他者を異教徒のように否定し、排除しようとするのは、まさに宗教的な妄信ではなかろうか。自らの救済をいずれに求めるのかはまさに「自己責任」の問題であり、想や信についての「妄」も「迷」も己に向けて発すべき問いであろう。

2011.07.13.

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