NPO法人 ニュースタート事務局関西

「愛について」髙橋淳敏

By , 2025年11月15日 5:00 PM

愛について

 私は76年の生まれで、来年には50歳になりますが、この50年間でも「愛」という言葉は多くの場面で使われてきて、概念は曖昧なままにも、ほとんどは肯定的な意味だった。その意味は違うが、「平和」なんかに似た出自がある。「愛」も「平和」も昔からあるようでいて日本語では、今のような使い方がされたのは明治以降と聞く。平和は戦争の対義語のように使われるが、よくよく考えてみるとそうでもなく、平和の内にこそ戦争状態はある。例えば他国の戦争状態があって、今の日本地区の平和と思われる事態が成立していると考えることができる。今のアメリカやアメリカがやってきたことなんかが分かりやすいが、絶対的な悪のような存在はなく、戦争でぶつかり合うのは双方の正しさである。アメリカの平和は、常に戦争によって保たれている。いわんや、その保護下にある日本の平和をやである。平和と平和の間に戦争があるか、戦争と戦争の合間に平和があるのは地理だけでなく歴史を見ても明らかである。戦争と平和は対というよりも共存している。そのどちらかに転ぶのかの平和の均衡は、身も蓋もなく武器や金や核やエネルギーなど、力によって支配されているようにも見える。そして、同じような時期にアメリカや西洋の近代文明とともに輸入されていた「愛」について、私は「愛」を使うこともほとんどないが、少し考え直したい。英語のLOVEなどを訳した愛にも、深いなどではないもっとあからさまな意味がありそうだ。

 もう十年ほど前の話しとなってしまうが、久しぶりに会った人から受けた質問を度たび今でも思い返す。「今の社会は良くなっていると思いますか?」と、十年以上ぶりに、たぶんその人は前に私に会ったことすらも覚えていなかったと思うが、その後長く話し込むことになる私に対して、かなり早い段階で質問された。私は、その質問に応えるのに窮して、あいまいな答え方をしたと思う。当時の私は「社会は良くなってしかるべきなのに、なぜか悪くなっている」と言葉にはできなかったが、応えることができたかもしれない。簡単に答えると「悪くなっている」だが、私は「社会は良くなってしかるべきだ」という考えの方を、いろんな人と共有したり話したくて、悪くなっている事実を共に見ようとはしていなかったのかもしれない。だが、私が質問の応えに窮しているのを見届けた後、その人はすぐに「悪くなっていると考えている」と私見を明らかにした。私だけでなく、その人は誰に対してもそのように質問して、そのように答えていたのかもしれないが、このような想像の範囲内の難しくもないやり取りで、気づくことがあった。私は良くなってしかるべきであるという「正しさ」で、人と話しをしようと望んでいて、でも対話とは今の事実をお互いがどう感じ、考えているかの共有からしか始まらないようなことであった。

 近代化がそうあるのは戦争も経て、経済も民主化も、科学技術においても、人類の進歩や発展と云える出来事が多々あって、生産においても通信や移動においても、あるいは自然や人権や金融などにおける知識や技術も、一方向的に右肩上がりに向上してきたのであって、この社会が以前に比べて悪くなるはずはないと。そのように考えがちだが、「悪くなっている」と答えるには、それなりの思想というか、現実の見方が必要になる。私も、増加し拡大し恒常化していく「引きこもり問題」を通じて、この社会が「悪くなっている」実感はあった。近代化が極まっていけば人が働く時間は減っていくはずだったが、働く時間が増えたり生産性が上がったのに賃金が減ったり、1つの家がつぶされた土地に2つの家ができて、以前より狭い家に窮屈に住んでいるのに家の値段は高くなっているとか。ゴミ問題もそうだが、物に溢れているのに、便利にもなっているはずなのに、幸せになっているどころかむしろ不幸になっている。喜びも楽しみも数は増えているのかもしれないが、その内容が貧しくなっている。だが、なぜ「悪くなっている」と答えられなかったかというと、悪いことの自らの理解が及んでいなかったからだった。

 悪い事態を立場は違っても、お互いにその当事者として確認し合うことに、平和や愛の営みはある。平和とか愛をそのまま言葉にしたところで、それは空虚なものでしかない。夏目漱石が「I LOVE YOU」を「月がきれいですね」と訳したらしいが、その意図は分かりもしないが、愛とは言葉や概念などではなく、共にある行為のようなものと云いたかったのかもしれない。日本で80年代をピークに作られた性愛や自由恋愛、核家族の愛の形はあったとは云えるが、もはやその行為は形骸化してしまっている。今、ある愛や平和の行為とはなんであろうか。

 最後に、ここでもよく取り上げるCP者の集まり「青い芝の会」の綱領、「われわれは愛と正義を否定する」を取り上げる。かれらは、70年代にすでに、愛と正義の欺瞞について気づいていた。それは、愛と正義を振りかざす一般社会が、彼らの存在を「あってはならないもの」としたからであった。引きこもり問題は社会問題である。それなのに、「ひきこもり」は「あってはならない存在」として、扱われることが多々あった。私は引きこもり問題が、この世界の「愛」や「平和」の革新的なテーマであると考えている。

20251115日 高橋淳敏

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