直言曲言 第307回 「発見」
引きこもりご本人自身の意識的な課題は(Discover himself)つまり自己自身の発見、生き方の発見である。当たり前のような答で、複雑で難解な答を期待された方は少しがっかりされよう。しかし「生き方の発見」というのは人生前半における最大の課題であり、中には中高年になっても「そんな課題に遭遇したことがない」という方もいらっしゃるかもしれない。そんな課題は「どうでもよい」と思う方には「どうでもよい」のであって、しかし一度めぐり合ってしまえば答を見つけるのは大変な難関、中には精神病を患ってしまったり、引きこもりなど「脱出」困難な袋小路に迷い込んでしまうかもしれない。
Discover himseif 自体は平凡な課題で、また簡単に答えを見つけてしまう人もいる。時々、これがこじれてしまうのは、親や先生などが「浅はか」にも「モデル回答」みたいなものを押し付けてしまい、子どももまたそれに素直に従うのではないのに、強い影響を受け、自分自身の理想または現実の選択肢との葛藤に苛まれてしまうことである。この場合、親は自分が子どもに重大な影響を与える言葉を吐いたことなどほとんど自覚していず、子どもの悩みに無頓着である。親としては自分が普段から考えていたことだから、悪影響など与えるはずがないと考えている。無邪気な例としては、親は若い頃から考えていて実現しなかった自分の夢を自分の子どもに期待することさえある。いやむしろそういうケースがざらであると言える。
親と子の間で「人生の夢」を語り合ってはいけないとは思わない。子どもに夢を語るのなら中学生になる前の方が良いと思う。子どもが彼自身の夢を持ったり、考えたりする前だからだ。逆にいえば中学生以後の子どもに軽々に親の希望など語るべきではない。親の夢に従うかどうかの問題ではない。子ども自身の夢と親の夢がすれ違った時、思い迷うきっかけになってしまうからだ。
いわゆる「子どもらしい夢」というものがある。「新幹線の運転手になる」とか「サッカー選手になる」というたぐいのものだが、子どもは成長するに従ってより現実的な夢に自己「調整」をしてくる。「新幹線」や「サッカー」が現実的でないと言う訳ではない。ましてや「悪い職業」や「いけない選択」という訳ではない。大人は「より現実的に」という視点で公務員やサラリーマンなどの無難な選択を勧めてしまう。公務員やサラリーマンが特別に困難な選択とは言えないので、夢はいつの間にかそこに落ち着いてしまう。つまり自分の人生を考えたり、自分で自分の可能性を考えたりすることのないまま少年期を過ごしてしまう。それでも思春期はやって来る。親に押しつけられたという意識もないままに、決められたレールに乗ってしまっている自分。どこかに、自主的な選択をして、主体的に生きているという実感がしない。そんな時に競争社会に直面をすることが余儀なくなる。人間不信や対人恐怖、その他の神経症的な衰弱に遭遇する。必死になって自分を再発見しようとするのだが、原因は分からない。原因そのものは単純なことだから、思いいたることはあろうが、答えは分からない。「自分の発見」なんて哲学的な命題であり、そんなに簡単に思い当たることではないのだ。
ところでニュースタート事務局関西はそんな難しい「自己自身の発見」を引きこもりご自身に迫っている。ただし「自己自身の発見」なんてことを言っても、ほとんど何の事だかわからないのでNSP(ニュースタートパートナー=訪問活動)は対人接触の必要性を述べ、そのために「鍋の会」への参加をお勧めする。誤解を恐れずに言うと「鍋の会」への参加や共同生活寮への入寮などどうでもよいのだ。鍋の会に参加して、友人を作り、他人と交わることによって、自己を客観視し、自分を発見することが大事なのである。
「誤解を恐れずに言う」と言ったが、実は最も誤解して欲しくないのはNSP自身である。常々、私は「『鍋の会』が最も重要だ」と言ってきた。そのことに変わりはないのだ。それでもあえて言う。鍋の会に参加して1年以上経つ。なのに「日常生活は少しも変わりがない」つまり相変わらずのニート状態、という人は鍋の会への参加を一度辞めて頂きたい。鍋の会に参加して「対人恐怖」は薄れ、人前で話すことにも慣れ、時には冗談さえ言えるようになった。しかし、30近くになっても親にパラサイトし、働きもせず、決まって外出するのは月2回の鍋の会だけという人。そんな人は「鍋の会」には参加しているけれど、自分自身の発見や生き方の発見が出来ていない。「発見」は難しい課題だから、猶予されるとしても、自分自身を見つけ出すと言う課題さえ認識出来ていない人は「鍋の会」はニートたちのユートピアではない、と言いたい。
今回の「直言曲言」『発見』のテーマは以上である。以下はそれに関連しての筆者の宣伝とお願いである。それに古くからの「直言曲言」の読者や既にお読みいただいた方には再読をお勧めするほどではない。以下は無視して頂きたい。
生意気なことを書いたが「生き方の発見」というのは生易しいことではない。また哲学的な瞑想の中から生まれてくるとは限らない。私は20代の前半まで、自分の人生の生き方に悩んでいた。いくつかの生き方の実践の中でそれを見つけた。そのことを「自分で自分が何であるかを決めた頃」という文章にまとめている。日付けを見ると2002年9月とあるから、かれこれ9年前である。ニュースタート事務局関西のホームページの表紙に「Voice」というコラム欄がある。その末尾に「自分で自分が何であるかを決めた頃」は連載されている。そこに書かれているのは少し異様な貧乏体験をした少年と、その子が長ずるに及んで苦闘した学生運動の体験談である。言うまでもないが、学生運動やその他、私自身の生き方を他人に勧める気など毛頭ない。父の影響を受けて、左翼運動に傾倒するが、父は私の逮捕・有罪判決に絶望し、その後私は、父の希望とは別に自分自身の生き方を発見して行くいわば「半生記」自叙伝である。決して私の生き方などススメはしないが、自分自身の生き方との遭遇例としてはお役にたつのかもしれない。そこには書かれていないが、私自身神経症を病み、妄想に囚われたことの一例でもある。妄想は決して精神病の症状ではなく、自ら克服できると言う体験記でもある。
2011.06.06.