直言曲言 第306回 「脱成長」
3月11日に発生した東北関東大震災は、発生直後ではなく時間が経つにつれ、衝撃を増して行った。発生直後から大地震であることは分かっていたが、2度ほどの修正を経て「マグニチュード9.0」だと言う。マグニチュードと言うのは科学的測定値ではなく、人々の衝撃度を人為的に評価した尺度なのだと言うことが分かった。その評価を高めざるを得なかったのは14メートルを超えたと言うあの津波の映像だ。津波の被害をその高さで評価して良いのかどうかは分からないが、とにかく人知を超えた現象だと言うことは巨大な船舶が3階建ての建物の屋上に乗り上げている映像が如実に語っていた。3つ目の衝撃は言うまでもなく福島原子力発電所の事故である。3つ目であると同時に世界を震撼させた最大の衝撃である。
事故は震災による大津波が契機となった。津波は大地震による海底変動が原因で、それらは明らかに天災によるものである。しかし原発事故は人災であると言われ続けている。なぜだろう。原子力発電によらず、現代においては科学技術の発達によって、さまざまな技術システムが実現されている。ロケットや宇宙船の開発、ジャンボジェット機の運航、超高速列車の運行など、これらビッグサイエンスと言われるものは最先端技術の組み合わせにより成立しているが、一つ間違えるとどのような事故が起きるか検証されていないものもある。開発の時にいかに綿密に組み立てられていても、実際に運行に携わる人がそれら個々の技術に精通しているかどうかも問題である。だからこうした巨大技術は想定外の事態に遭遇した時には、緊急停止等の措置が講じられている。原子力発電も制御の難しい核燃料を扱うため、様々な角度から危険性が指摘されてきた。大震動と津波による冠水のため、原子炉の運転は緊急停止した。しかし、原子炉は簡単に運転したり、停止したりすることが困難なシステムである。核燃料棒は発電時に核融合による核分裂の為、発熱するが緊急停止時には核燃料棒の間に制御棒を差し込み、核分裂を停止させる。ところが。核分裂は直ちに停止するのでなく、何カ月間も高温を発生し続ける。これを循環水により、冷却し続けるがこの為に原発の炉には非常用電源が接続されている。今回の津波では、冠水によりこの非常用電源が破壊されてしまった。高熱の発生による水素発生・爆発や炉心溶融(メルトダウン)などが次々に発生、地震発生後2カ月になろうとする今日(5月11日)現在、事態の推移はいまだ明確ではない。菅首相は中部電力浜岡原発の原子炉停止を要請して、「原発政策の転換」かと期待させたが、他の原発への波及は否定し、エネルギー政策の基本は変えないことを示唆した。
政府や東京電力は事故の実態や放射線漏れの実態を国民に正確に知らせようとしていない(ように思える)。「真実」を知らせて国民にパニックを起こさせないように、との配慮は分かるが「真実」を隠してパニックを起こす権利さえ奪われるのはまっぴらである。嘘の戦果に振り回された「大本営発表」の時代と変わらない。風評被害を防ぐのも理解できるが、外国では日本製品を食品以外でもボイコットしようとしているのは必ずしも風評被害だとはいえないのではないか。どれが真実かは分からないがインターネットでは「40万人」とも「70万人」ともいわれる人が将来発がんの危険性を持つとも言われている。また原発20K圏の強制移住により、多くの酪農農家は乳牛などの家畜を捨てて移住させられると言う。
少なくとも、これだけの議論を呼ぶ「原発事故」を受けて、エネルギー政策の転換を考えるのは当然だが、世界で唯一の「核爆弾被獏国」などと自慢げに言っている日本だが、世界最大級の原子力発電事故に遭遇しながら、核汚染に対する警戒心はおっとりとしたものである。この10年ほど、原子力発電に対する賛否は議論されながら、よく耳にした論法を思い出した。原発反対派が原発の危険性を指摘すると、推進派は「あなたは電力の恩恵に浴していないのか。」と反論し「火力発電は炭酸ガスの発生や地球温暖化を進める。」「原発こそクリーンエネルギーである。」と主張する。クリーンエネルギーかどうかは別として、電力の恩恵に浴していない人などいない。現在の原発依存の現状を考えると、原発廃止を主張すれば「あなたは○○の電力消費を抑制できるか」と言う追求に返答ができない。
なぜ返答ができないのか。この数十年電力消費は生活近代化の指標になって来た。それどころか、工業生産や経済成長の指標にもなって来た。原発停止によって、電力消費が抑制されるとして、その脅しがそれほど恐ろしいのだろうか。確かに、われわれはこの数十年、電力消費を拡大し続けてきた。原発停止は野放図な電力消費を抑制せざるを得ないだろう。しかし、電気をまったく使わなかった100年前に戻れと言うことではない。そこまで露骨な脅しは通用しない。たかだか5年前、10年前の水準で省エネすればよいのである。
しかし日本人にはこの数十年、沁みついた思考回路がある。1960年以来でも50年間続いてきた経済成長路線がある。確かにこの経済成長を支えてきたのは、一つは多電力消費であり、それを可能にしてきたのは原子力発電の容認と発電所の相次ぐ建設である。原子力発電の停止は我々生活者の節電にはそれほど大きな影響を与えるとは思えない。しかし、生活者の意識の中にも、経済成長を支えてきた電力の抑制は「避けたい」という意識があるのではないか。
「バブル経済」が破綻して10年、20世紀が終わり「失われた10年」と言われた。更にそれは「失われた20年」と続いた。それでもなお、経済成長を懐かしがる。この時代を支えた「団塊の世代」の成長幻想・成長神話が支配している。資源のない国日本、少子化・人口減に転じた日本。グローバル化で国境を超える産業と経済。世界の成長センターに転じた中国。更にはアセアン諸国やインド・ブラジルなど次世代を待ち受ける国々が続く。世界の覇権にしがみつくアメリカとその後を追い続けた日本。どうして欧米や先進諸国だけが富を独占し続けなければならないのか。周辺諸国に富が分散すれば、もとの国々は不幸になるのだろうか。そうして富を独占しようとして戦争を続けてきたのが20世紀の世界ではなかったか。原子力は発電も核兵器も含めてその象徴であった。
脱原子力に向けて、勇気ある第一歩を踏み出すキーワードは「脱成長」である。
2011.05.16.