NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第304回 「出会い」

By , 2011年3月5日 5:01 PM

これはこれまでの私のニュースタート事務局関西における活動の「懺悔(ざんげ)」でもある。「懺悔」として告白せざるを得ないのは、これまでの「例会」などに参加されたご両親などに対し、お子さんの引きこもり解決に直結する道ではなく、余分な発言をしてご両親をいらいらさせたり、不快感を抱かせたりしたことである。

あらためて大げさに言うほどのことではないかもしれないが、引きこもり解決の方法は実は簡単なことである。簡単と言ってしまうと失礼だが、12年間やって来て、少なくとも我々ニュースタート事務局関西にとっては、解決のためにはただ一つの方法しかないと確信を持っているのである。その答えは何か、簡単なことだが、少し待って欲しい。ただし、わが事務局に相談して頂いた方には、確実にその方法をお教えしている。大半の方が、その方法を実践して、実際に引きこもり問題を解決している。ただし解決に至るのはすべての事例ではない。残念ながら、相談に来られたご両親が、私たちの主張を信じられないケースやご本人があまりにも頑固で私たちの言葉に耳を貸されない場合は、この限りではないのである。

ところで私は一人ひとりの「引きこもり」を解決するだけでなく、引きこもりの原因を解明し、引きこもりを根絶したいと考えている。それに引きこもりの解決方法だけだと言うべきことは一つだけで、引きこもり問題の「例会」は簡単に終わってしまう。そこで私はご両親の発言に対し、色々と発言し、顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまう。中には思いもかけない攻撃を受けて「怒って」しまう方もいる。解決方法は一つなのに、引きこもりになる原因は千差万別である。親としては当然の教育のつもりが引きこもりの原因を作ってしまっていることが多い。私としてはそのことを指摘する方が、ずっと為になるし、そこで親御さんとの意見が衝突する方がはるかに面白いと思っている。私は昨年、関西代表を引退し、例会の司会も辞した。オブザーバーのように黙って聞いていただけのおっさんが突然、出席者のご両親に噛みついてくるのだから、驚くよりも腹を立てられるのも当然かもしれない。

ところで引きこもりの簡単な解決法とは何なのか。「簡単」と言ってしまうには語弊がある。要するに答えは単純なのである。親御さん方は何に悩んでおられるのか。様々な原因で引きこもりになった。その結果、学業が続けられない。就職して働く意欲を持たないように見える。これらは表面的な現象である。しかし、引きこもりの99%は対人恐怖または人間不信症状にある。精神科医に統合失調症または鬱病と診断されている人でもこの症状に悩まされていることに変わりはない。だから、我々はこうした精神障害の診断を受けている人でも拒まないし恐れはしない。対人恐怖や人間不信に陥っている人への対処法は唯一「人慣れ」させることである。引きこもっている人は、その定義からしても当たり前だが、家族兄弟や一部の人を除いて対人接触をしていない。この状態が続けば通学も出来ないし、就職も出来ない。状態が長引けば、履歴書も書けないし、面接を受けることも出来なくなる。親御さんに聞いても、ここまでの状態認識はほぼ同じである。だとすれば、解決方法も明快。「人慣れ」させればよい。しかし、難しいのはこれから先である。引きこもっているのは若者であるが、これを助けたいと思っているはずのご両親も実は社会的に孤立無援であり、ご両親も深刻な人間不信に陥っているケースが多い。つまり他人の助けが借りられないことが多いのである。「人慣れ」させなければならないのに、そのことまで学校や病院で「習わせよう」とされる。「習う」と「慣れる」は違うのである。「人慣れ」と言う一見単純、実はなかなかに難しいのがこの解決法なのである。

ことわざにも「習うより慣れよ」とある。人慣れとは習うものではなく、自然に慣れるものである。人間が成長過程で自然に慣れるはずのものなのに、この競争時代で何でも金銭に換算して行く時代に人慣れを「学習課題」にしてしまった。しかも受験競争の中、学科学習を優先してしまい「人慣れ学習」は置いてけぼりとなった。人慣れが課題だと言うことは分かっても、親たちもそんなことをどこで習ったか忘れてしまっている。慣れるためには人に「出会う」ことで、それを繰り返しながら慣れるしかない。今どき人と人が出会う場所となると「出会い系」のネット等が思い出される。「出会い系」となると「人慣れ」と言うよりもストレートな男女交際が想起される。

アダムとイヴが出会っても、イザナギとイザナミが出会っても同じことをしたのだから「出会い系」で出会った後のことは問うまい。とにかく人と出会わなければ話にならない。ところが、引きこもりと言うのは引きこもり中に頭のなかで相当に想念をこねくり回しているので、出会いを素直には受け止められない。私たちは一つの人と人との出会いの場を「鍋の会」と設定している。知らない人同士が出会って、一緒に食事をする。それが仲良くなるのに一番適した場だと思うからである。それを合コンと名付けようと先ほどのアダムとイヴと思おうと出会い系と考えようと「ご自由に」と言う訳だ。「知らない人同士が同じ鍋で食事をするなんて気持ちが悪い。」などと言って参加を拒む人もいるが、これも「どうぞご勝手に」としか言いようがない。そもそも産院のベッドで隣り合った時からでもない限り、生まれつきの知り合いなどいない。どこかで初めて出会わなければ、同じ鍋を囲む機会などないのである。「御嫌ならあなたは一生人と出会わないで過ごしなさい」としか言いようがない。

もちろん人と人との出会いは「鍋の会」に限らない。人が当たり前の生活をしていれば「出会い」の場は無数にある。そこでどんな人と出会うかはその人の人生を左右すると言ってよい。恋人との出会い、それが発展して一生の伴侶となるかもしれない。親友との出会い、親子の出会い、兄弟との出会いもあるだろう。それも最初は知らない人同士の出会いかもしれない。今は、人と人との絆が薄れ、なかなかに出会いの少ない時代なのかもしれない。だからネット系の出会いなど、少々いかがわしい出会いの場が幅を利かせているのかもしれない。人と人との出会いの場が少なくなって、あるいは人との出会いを求め無くなって若い人の結婚が遅くなったり、非婚者が増えているのかもしれない。私たちは、難しい理屈を言うのではなく、単純に「鍋の会」にいらっしゃいと言い続けている。そこでの出会い、とりわけ男女が出会い、結婚に至ることも歓迎している。やっぱり鍋の会は出逢い系か?

2011.3.5.

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