NPO法人 ニュースタート事務局関西

「制御と解放」髙橋淳敏

By , 2026年3月21日 5:00 PM

制御と解放

朝、スッキリ起きることができない。長年の悩みであるようで、朝スッキリと起きた記憶がないので、悩みにすらなっていない。「スッキリ」という感覚がまず分からない。起きて、朝ご飯を食べて、外の空気を吸って、それでもまだスッキリしないで、だんだんと朝のだるさや重さが抜けていくのか、いや交感神経がまさるようにして、副交感神経があまり作動しなくなる麻痺の感じに近いかもしれない。昼になると眠くなる時もあるが、「起きている」実感もなく(そんな実感はどうでもいいだろうが)、実感がないからこその生の平衡状態、スッキリとかダルイとかモヤモヤするとかへの無感覚状態である。そこに寒いとか熱いとか旨いとかまずいとかそういう感覚が重なる。そして、夜になるにつれて何かに覚醒していく日もあれば、疲れ果ててすぐにダウンする時もある。そしてまたスッキリとしない朝がやってくる。あまりにも長く、このような日常を過ごしてきたので、それが当たり前のことだと思っていた。誰もが、多少の個人差はあってもスッキリとはしない朝を、少しの違いの中で迎えているに違いない、少なくとも今の時代、似たような暮らし方で過ごす人は同じだろうと、朝はスッキリとできないものと思いこんでいた。

スッキリとしないのは、朝だけではない。では、私はこの「スッキリ」という感覚をどこで覚えたのか。覚えがない感覚は感じたことがないわけで、知らない感覚は求めることすら難しい。私の日常はそれに近くて、「スッキリ」という感覚になった経験があまりに遠い昔のことなのかで思い出せないせいで、スッキリとしない日常は当たり前のものとして、自覚されることもなく繰り返されてきたのだ。だけど、どこかでこのスッキリとした感覚を経験している。というのも、私の日常の近しい人で、朝の寝起きこそ、一日の中で一番覚醒している人がいる。その人は、夜になるにつれて眠くなり弱っていく、これもまた自然で当然と思える一日である。朝ご飯を食べるのが楽しみで、朝パッと目が覚めるのだと言う。たぶんスッキリと目覚めているのだろう。そういう話しを聞いても見てもいたが、私はこの朝スッキリと目覚めることをずっと信じられないというか、そんなことはないと無知でいることにしていた。それでも、朝ご飯を工夫したり、夜早く寝たり、お酒を飲むのを控えたり、夜ご飯を早く食べたり、運動するよう試みたりと、日々いろんなことを試してもいた。ただ朝すっきりと起きたいがためだけに、一日が一年が無駄になってもよかった。いつかスッキリした朝を迎えるために生きているような本末転倒した日。そんな朝を希求することを忘れるほどに、経験していない朝を切望する毎日だったのかもしれない。

そして、その日は突然にして現れた。やはりまず朝スッキリと起きた記憶がないという自覚こそが必要であった。無知ではいけないのだ。この劇的な朝を迎えるまではそうであった。そして近しい人が毎朝覚醒していることや、朝起きてベッド横にあるカーテンを両手でシャッと開けて、陽の光を浴びながら伸びをする質の良い睡眠を促す商品広告で見るイメージとかも、ダルくて重い朝を相対化するには必要だった。しかし、実際にそれは体験しなければ分からないものだ。ダルくて重い朝に頑張って陽の光を浴びようとしても、余計に布団に戻りたくもなる。陽の光は重くのしかかるだけだった。暗い気分の時に明るい音楽を聴いて、気分が明るくなるようなことはない。そのようなことがあるとすれば、その明るい音楽の中にちゃんと暗さが含まれているからである。晴れた日の陽の光には、そのような暗さがない。暗さがみじんもない朝の陽の光を浴びて、私の身体はいつも真っ向から迎え入れることができないでいた。それは旅の朝、非日常にあった。旅の移動の疲れもあって、夜も遅く睡眠時間もそれほど、いつもの寝室でもなければ床に布団を敷いたところに寝て、飲食も多少無理をしていた、さらに昔ほど若くもなく朝の調子を寝る前に心配していた次の日が、なぜかスッキリとした朝だった。そういえば、年に多くても一度くらいしか旅はしてこなかったが、他所で泊った日は比較的すっきりとした朝を迎えていたのかもしれないと記憶の中で思い出しもした。私はスッキリした朝を非日常として経験していた。

ただ気持ちのいい朝、まだ早く陽の傾きで物足りないくらいに感じる光と落ち着いた覚醒感、こんな朝があると信じられない不思議な感じ、この時間がいつまでも続いてくれたら、明日もこのような朝であれば良いなと、東京のマンションの一室で一人の時間を過ごした。そして、日常の朝がなぜもこうスッキリとしないものかと改めて考える。私のすっきりしない朝は幼少期から続いていた。それは行きたくもない保育園か学校か、そのために起きなければならない朝から続いていたと思う。楽しみにしていた休日や、やりたかったことができる当日の朝でも、それが日常の中であれば、それほど寝起きはスッキリしなかった。そして旅から戻った日常は、またスッキリしない朝に戻った。

近代的な私たちの暮らしはあらゆるものを常日頃、制御しなくてはならない。移動において歩くという動作は、身体は解放的に向かうが、車の運転はエンジンやモーターやハンドルを制御する。トンカチやのこぎりは身体の自然な動作で使える道具だが、インパクトドライバーや電気のこぎりなどはモーターを制御することに筋肉や骨や神経を使う。家の中には水道ガス電気が、高圧で流れ込んでいて、それを制御するためのブレーカーや栓がある。栓を捻るだけだが、常に制御され解放することは資源や金を無駄遣いすることになる。水を汲みに行ったり、薪で炊くのとは違う。交換価値でしかない金も、必要以上に持たなくてはならず貯めこんで、その使い方を制御しなくては都市郊外の生活は維持できない。本来は知ることの喜びで解放されるための勉学であるはずの勉強も、まずは椅子に着席し自らの身体を制御し、やり方や時間なども制御する点数を稼ぎのゲームになっている。見栄えや、健康も、畑も、コミュニケーションも、気候変動、花粉などアレルゲンの散布、何もかも。私たちが起きている間、異常なほど交感神経を働かせすぎではないか。これは引きこもるような生活をしていてもそうである。将来の不安や焦り、過去のトラウマが繰り返し思い出され、一人向き合い緊張する。その緊張をほぐすために他のことをしたり、寝たりするが、緊張や不安は再び同じかそれ以上の強度で現れる。ひきこもっていることを休息と思う人もあるが、ほとんどそんなことはない。かつて上山和樹さんは「働いている人はオンとオフがあるが、引きこもっている人はずっとオンである」と言った。今となっては働いている人もオフがないのではないか。

スッキリしない朝は、言うなれば副交感神経の氾濫だと考えている。医学的に言えば自律神経失調症だが、個人の病というより、この社会の病理としてある。逆にどういう原理かわからないが、スッキリとした朝を迎えられる人もいるだろうし良いことだが、私たちのこの生活のあまりにも過剰で偏重した制御や緊張が、日中の身体や神経を犯してすり減らし続け、身体の自律を回復すべき副交感神経が、これもまた過剰で偏重な動きをせざるを得ず氾濫するのではないか。それが見えるところでは、自律神経異常、アレルギーや免疫系の疾患、不眠などとして現れ、そして引きこもることや不登校などは、この社会からの撤退を強いられている。そして、撤退したところで治りはしない。なぜならば、それはこの社会の病理なのだから。ところで、旅から帰ってきて、またその日常に戻ったわけだが、経験したことのないスッキリした朝を今までのように求めることはなくなった。もちろん、日常でもスッキリとした朝を迎えたいものだが、その経験を非日常で経験した私は、これまでのダルく重い日常を少しは受け入れることができるようになったのかもしれない。難しいことも考えたが単純な話しで、旅など非日常を経験することは良いことだ。

2026年3月21日 髙橋淳敏 

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